幸せな子育ての八十八段(2) |
2010.4.6up |
(1)のつづきです。 さて、時は変わり、今年のお正月のことです。 やっぱり倉敷のことで、 あの石段で出会った2組の親子は、 単なる偶然だったのか、偶然じゃなかったのか、 私としては、とても気になって、確かめてみたくなり、 帰省時に、再び阿智神社に行ってみることにしました。 倉敷の美観地区に入ると、やはり夏の時と同じく、 手をちゃんとつないでいる親子が多いことが目に付きました。 よくよく観察してみると、親が手をつながせているというより、 子どもの方から、親に“手をつないで”という感じで、 自分の手を持っていっている場合が圧倒的のようでした。 セラピーを通して、“手をつなげるようになる”みたいなことなら、 私もしばしば経験していますが、 地域の大多数が自然にその状態になっているというのは、 なかなかのカルチャーショックです。 初詣の時期だったので、 夏のときとは比べ物にならないくらいたくさんの親子が 88段を手をつないて昇り降りしていて、 やっぱり首都圏とは違うなあ、などとぼんやり考えながら、 阿賀神社の88段を半分くらいまで降りてきたときのことです。 眼下から、身体を緊張させながら、 恐い気持ちに寄り添ってもらうかのように お父さんとしっかり手をつないで、 黙って、前かがみになって自分の足元だけを見つめて、 でも、トントントン・・・と、しっかりとした足取りで、 6歳くらいの女の子が登ってきているのに気付きました。 お母さんとお父さんとその女の子の3人連れのようでした。 その女の子は、ちょうど私とすれ違うくらいのときに、 ついに「こわい〜」と、本当に恐そうに言いましたが、 そう言いながらも、ずんずんと登っていきました。 私は、女の子が自分の気持ちを口に出して言えたことが、 よかったね、と、なんだかうれしくなってしまいました。 こういう感じって、なんだか変に感じるかもしれませんが、 しかし、この場所ではこんな私の感覚が当たり前なんだということを、 その直後に改めて確認することとなりました。 女の子が「こわい〜」と言った直後、 私のすぐ後ろを歩いていた別のお父さんが、 抱っこしていた2歳くらいの女の子に、突如、 「ねえ、○○ちゃん、恐くない?」と聞き始めたのです!! それまで、この親子は特に言葉も交わすこともなく 黙って石段を降りていて、 このままいけば、面倒くさい娘のヤダヤダなんか起こらないのに、 あえて、ここで○○ちゃんの「恐い」を お父さんは煽り始めたのでした。 「あのおねえちゃんみたいに、恐がったらダメ」どころか、 むしろ影響を受けて自分の娘に見習わさせているという・・・。 不思議な感じですよね。 でも、こうした些細な場面でも、 子どもが自分の気持ちを見失わないように、 親も一緒に気持ちを共有しながら過ごすということを 当たり前にできるのは、すごいと思うわけです。 自分の気持ちに気付かないようにしてガマンをかけて、 結果だけを求めて、日々の貴重な体験を無難にやり過ごしていくより、 親子で濃密な時間を過ごしているわけですから。 付き合う親としては大変なことなんですけれど、 そういうことで言えば、このお父さんのおおらかさというのがすごいわけです。 このお父さんのおおらかさがあればこそ、 子どもは将来、人生のピンチに遭遇したときに、 お父さんだけでなく他のまわりの人にだって自分の気持ちを伝えれば、 応援してもらえるものなんだということを 信じられるようになると思われるわけです。 助けてほしいときに「助けて」と言えることも、 大事な大人の素養ですが、 それはある日突然できるようになるもんじゃありませんよね。 さて、この2歳の女の子は、お父さんの問いかけに、無言でした。 そこで、なんと、お父さんは、もう一度、 「ねえ、○○ちゃん、恐くない?」の質問を繰り返したのでした。 そうしたら、ようやく女の子が「うん、こわい」と答えました。 この「うん、こわい」に対するお父さんの反応は、 これまた、なんと、一言、 「恐いよねー」 ・・・これで終わりだったのです!! 「恐いときにはこうしなさい」「大丈夫だよ」などは、何もないのです。 つまり、ただ“共感”しただけ。 そうです、確かに、この場合、これだけで十分のように 考えてみれば私にも思われました。 むしろ、私の方が勉強になったくらいです。 このお父さんは、実に正しいのです。 すごいです。 抱っこ法なんか用もなく、こんなことできるなんて。 しかし、やはり裏を返して言えば、 昔ながらの当たり前の子育てをしていれば、 ここまで正しい親子のやりとりができる・・・ということのような気がします。 その後、こんな場面にも遭遇しました。 私が、うどん屋さんでうどんが出てくるのを待っているときに、 3世代親戚一同の先陣を切って入ってきた、 お母さんと2歳くらいの娘さんが、こんな会話をしていました。 テーブルに着きながら、持っているお団子のパックを見せて、 娘「これ、食べたい」 ・・・すると、即、明るい声で、 母「食べたいねー」 もう、即、子どもの気持ちに寄り添って共感するお母さんの反応が、 板についている模様です。 ものすごい反応のよさです。 しかし、とりあえずはお団子を食べないで、 この母娘はトイレに行ってしまいました。 私も、その数分後にうどんを食べ終わって、 このうどん屋さんの一旦外に出た裏側の 建物の隅のほうにあるトイレに行ったのですが、 その懐かしい雰囲気の古い木や土でできた塀に囲まれた裏の通路で、 オムツ替えをしているこの母娘に会いました。 お母さんは、とても気さくに明るい声で「どうもすみませんねー」と 私に言ってきました。 私も、「いえいえ、大丈夫ですよ」と答えて、トイレに向かいましたが、 オムツ替えをしながら楽しそうに会話するこの母娘の声が、 ずっと聞こえていました。 トイレを済ませ、また戻ってくると、再び、お母さんは明るい声で、 「どうもすみませんねー」と言ってきました。 私は、「いえいえ、大変ですね」と、答えましたが、 答えてすぐ、“大変ですね”というのは、 この親子の場合、おかしいだろう?と、感じました。 見るからに、大変そうじゃなくて、楽しそうなんだから。 もうひとつ、喫茶店で出会った 3世代親戚一同の中の、6歳くらいの女の子です。 この親戚一同の方々は、8人ほどで来られていて、 2つの隣り合ったテーブルに分かれて座っていました。 それで、成り行きでこの女の子とお母さんは、 別々のテーブルに座ることになっていたようでした。 お茶とケーキを食べ終えたこの女の子は、 なにやら、お母さんに聞きたいことがあったようで、 「ねえ、おかあさん・・・」と不意に立ち上がり、 隣のテーブルに近付いたと思ったら、急に、ハッとして、 「あっ、私、ごちそうさまするのを忘れてた!!」と言って、 再び自分の席に戻り、手を合わせて「ごちそうさまでした!」と きちんと挨拶したのでした。 親戚一同は、あまりのかわいらしい出来事に、 次の瞬間、幸せそうな笑い声に包まれていました。 私は、この女の子の、あまりの“おりこうさんぶり”に驚いていました。 ちなみにその女の子がお母さんに聞きたかったことというのは、 今日は、この喫茶店で食べたら、このあと夜まで 何も食べるものがないのか?ということだったようなのですが、 お母さんはしばらく考えて、 「昨日お餅つきをしたお餅だったら食べていいよ」と答えていました。 そしたら、また親戚一同が「よかったねえ」という声に包まれていました。 「お餅つき」なんて習慣をちゃんとやっている方たちだったのですねえ。 この地域のこんな雰囲気の中で、こんな子育てができているんですよ。 後になって気付いたのですが、 あの、石段を登るようにお父さんやお母さんが 子どものききわけを促しているというのは、 子どもの成長をお父さんやお母さんが支えていくことの 比喩みたいなものになっているのですね。 というのも、なんとあの石段にはそれぞれ名称があって、 88段は「米寿坂」、61段は「還暦坂」、33段は「厄除段」と言うそうです。 つまり、一段上がるごとに、 一つずつ歳をとっていくという比喩になっているわけです。 遠い未来の21世紀になっても、ききわけの練習場所として、 子どもを一歩でも大人に近づけていくような親子のやりとりが ここで繰り広げられることを知っていて、 造られた石段なんでしょうか、これは??? 阿智神社は、この地域の子育ても守ってくれているのですね。 それから、「美観地区」って、昔ながらの街並みが残っているだけでなくて、 昔ながらの子育ても残っている地区のようです。 美しいです!!! 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【追記 2019.8.23】 (1)にも追記いたしましたが…、 その後、倉敷の街の変化は大きく、 2011年には駅北口に立派なお買い物スポットが 大々的にオープンし、 美観地区の古い家や商店の リフォームやリノベーションも相次ぎました。 本稿は2010年に書いたものですが、 その翌年には、もうすでに 倉敷の街でこうした親子の姿を見かけることが すっかりなくなっておりました。 とは言っても、まだ、 お正月に阿智神社に行くと、 その境内だけでは、 以前の名残のような光景を 目にすることはあるように感じています、 今のところは。 こうした親子や家族のありようの 社会的な変遷が、 いかなる要因によって惹き起こされるのか、 いずれかの学問分野によって 明らかにされていくことを切に願います。 (1)にもどる |
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