ことば試着室
〜「“ちがっていい”の難しさ」の巻〜
2009.1.11up(2008.4.4作)
「ことば試着室」へようこそ。

少年〜青年期の私の人格形成は
良くも悪くもジャズと共にあったのですが、
特に、表現を即興で行うことが当たり前であるジャズミュージシャンの中には
「人と同じことは演奏しない、昨日と同じことは演奏しない」という信条で
頑張っておられる方が少なくなく、
そんな話を私もジャズ雑誌などで読んで、
「おぉ、これだ!」とモロに感化されていました。
それで、音楽だけじゃなくて、生き方についても
「人と違うことをしてナンボだ」と、
品行方正に見えている私でしたが(多分)、
深層ではそんなことを考えて少年〜青年期を過ごしていたように思います。

まあ、ジャズをもっと勉強していくと、少々丸くなって、
先人のやったことを踏まえてこそ(要するに伝統を踏まえるということですね)、
その先に進めるということも分かってきましたし、
人の演奏をコピーして、
自分の引き出しを増やしていこう、なんていう方法も
あることを知りました。

さらには、「人と違うことをやろう」と思ってやったことには深みがなく、
良いものにはならない、ということも悟りました。
「人と同じ」「違う」などということにこだわらずに、
自分が感じていることを正直に表現すると、
「人と違う」となることは一般的にたびたびあることのようなんだけれども、
そこで「人と同じことをしないといけない」と思わないで、
「自分に正直」を貫き通したほうが良いものになる、というのが、
今のところ、そのあたりの極意ではないかと思っております。
(無論、人に迷惑をかけない程度の話ですけれどね。)


それにしても、なんと、ジャズでは人と違うことをやったら
「すごい」ということが多くあります。
ただし、違うことをやってもみんなに「それは良い!」と思われなくては
聴き流されてしまいますけどね。
(でも一方で、人がなんと思おうと、自分が良いと思えば
それで満足という人もいるみたいですが。)

例えば、オーネット・コールマンというミュージシャンは、
当時、ジャズの代名詞のようなものだったバップ奏法を
どうしてもマスターできなかったと言いますが、
その代わりにハーモロディック理論という
それまで誰も聴いたことのなかった新しい音楽の方法を編み出していきました。
現在では、オーネットはジャズの巨人のひとりということになっています。
直接会うと意外に普通のおじさんだという噂もあるんですけれどね。

ああ、そういえば、ジャズに限らず、
芸術分野ではこういうことが多いですかね。
人と違うことをやったほうがすばらしいっていうところ、ありそうです。
その他の分野でも、
人と違うことをやる人は貴重である場合があるかもしれません。
稀なことかもしれませんが。

さてさて、ここまでの前置きとは関係ないようですが、
そこを踏まえたところで、今回のご試着です。


わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。

わたしが体をゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。


                (金子みすず『わたしと小鳥とすずと』)


特別支援教育について、「みんなちがって、みんないい」と
そこのところがあちこちに書かれているのを見ることがありますよね。

でも、これ、言葉でいうほど簡単なことではないですよ。
私は最近、すごくそう思います。

言葉が身体から離れて宙に浮いていないか、気を付けないと!

少なくとも、ジャズで人格形成したらしい私は、
みんなちがってみんないいと、当然、ずいぶん昔から思っていましたが、
それにしても、ちがっていると
やっぱり現実に心配になることがたくさんありますよ。

ジャズあたりでは「変わったやつだ」「変なやつだ」を
褒め言葉として使うことがあって、
私などは友だちに「お前は変わったやつだ」と言われると
(言い方にもよりますが)褒めてもらっているような気がして
(「変なやつだ」はちょっと落ち込みそうですが)、
「お前は普通のやつだ」と言われると、
こういうのも意外にちょっとがっかりしそうですが、
もし自分のことを科学でもって
一応は客観的だとされている証拠を突きつけられた上で
「あなたはみんなとちがう」と宣告され、
さらに「でもちがっていいんだ」と付け加えてもらったとして、
自分は確かに「それでいいんだ」と思えるかどうか・・・。
楽になることもきっとあると思いますが、
"全ての事態で”となると、私は自信ないですよ。

それでも「それでいいんだ」と思える人は、
皮肉でもなんでもなく本気で尊敬に値すると感じます。
少なくとも、当たり前の話ではないと思います。

あるいはこういうのって、理性でもって納得がいくことなんだろうか・・・、と。

例えば、
国語のテストではまずまずだけど、
算数のテストではいつもペケばっかり、
まわりのみんなはマルばっかり。
それでも、そんな自分を「それでいいんだ」と肯定できるような次元って、
そんなに簡単に到達されるものではないでしょう。
多くの場合、
しっかり自分と向き合うことを通してでないと成し得ないのでは???

「みんなちがってみんないい」は、
言葉で言っていれば浸透する世界観ではないと思います。
世の中の多くの人が「ちがい」を受容する体験を積み重ね、
自分が見ているものとしての"世界”が変わってくることで、
ようやく浸透する世界観だと思うのですが・・・。
無論、私はそんな世界が来て欲しいと願っていますし、
仕事を通して少しでも
そんな世界を作る手伝いができたら、とも思っています。
自分が人とどこまでちがっていても「大丈夫」と
本気で自己肯定できるようになれたらいいな、とも思っています。


・・・ああ、いろいろ書いていて気付きましたが、
自分のことを「ちがっていい」と思うより
人のことを「ちがっていいよ」と思うほうが、
やりやすいような気がします。
「自分のことを肯定できないと
人のことは肯定できない」ような気がしてましたが、
おかしいですね?
人のことを肯定していくことで
自分の同じような部分を肯定していくことができる、ということでしょうか?


・・・ということで、
今日のご試着は、お気に召しましたでしょうか?
(薦めた私がいまひとつなのですが・・・。)

・・・ええ、じっくり味わってみたけれど、
お気に召さないってことも、ありますから、大丈夫。

次のご試着をお楽しみに!

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