“知ること”と子育て
2007.9.21up
発達に遅れがあっても、障害があっても、
どんな子どもでも子育ては当然、必要です。
親子の結びつきがしっかりしたものになればなるほど、
子どもが環境から刺激を受けて、
自分の中に吸収していく力は
すばらしい輝きを放ちはじめます。

どんな子どもでも本当は
コミュニケーションすることが大好きです。
一見、コミュニケーションすることが
嫌いに見える子どもや自閉症と言われる人も、
本当はコミュニケーションすることが大好きです。
でも、苦手なのです。
だから手助けが必要です。

どんな子どもでも本当は、
“(言語で言い表せないものも含めた広い意味での)知ること”が大好きです。
我々は、自分の身体を“知ること”によって存在することができるし、
世界を“知ること”で自分の人生を築き上げていきます。
生を受けて、自分の身体を体験し、
この世界を味わい体験し、世界を広げ、
世界を自分の中に築きあげていくことで発達していきます。
あるいは、人が発達していくということは、
まだ自分と自分の外との間の境界線がない生まれたばかりの時から、
すでに自分がおぼろげに感じている言語で言い表せないものを、
段々と意識していく作業であると考えた方がいいかもしれません。

だからまず身体が立ち現れ、
その中に子どもは世界を築き上げていくわけだから、
一般的に思われている以上に
発達の土台としての身体というものは、とても重要であると思われます。
日々、自分の身体上に浮かび上がる感覚や感情というものに対して
子ども自身が関わっていくその営みが、
その子どもの発達や、
言葉に変化を与えていく素因になるというちょっと変わった視点も
成立しうるのではないかと思われます。
身体で感じているものでしか言葉の意味になりえないからです。

子どもが許容できる学習の量や速度や興味の範囲は、
それぞれの子どものそれぞれの発達の時期によりさまざまです。
ゆえに、人為的な課題を子どもに与える場合は、
どのくらいのペースで何を吸収していってもらうのかを
それぞれの子どもに合わせてきちんと見立てていくことが
とても重要になってくるわけです。

でも実は、子どもは元気があれば、自分にとって必要な学習を
日常の中や遊びの中で自分で見つけ出し、
繰り返し繰り返し、夢中になって身に付けていくという性質も持っています。
自分に必要なことは子ども自身が一番よく知っているのです。

“知ること”は、自分の生命が
自分の身体や他の生命や物といった様々な対象に
“潜入”するかのようにして
その隠された“意味”を浮かび上がらせることにより
成し遂げられていきます。
これは人間ではなくても、あらゆる生命が行っている営みであります。
微生物や原生動物も、さまざまな自分を成り立たせている素材を統合し、
自分という個体の意味を浮かび上がらせて
“知ること”を成し遂げ、ひとつの生命として存在しています。
ここで言う生命にとっての“知ること”というのは、
言葉を使わなくても、そんなふうに自分の中に対象を取り込み、
自分の中で統合し、意味を浮かび上がらせていく過程のことを言っています。
もっとも、人間の“知ること”は、微生物よりも
もっともっと統合する対象が拡大されていくわけなのですが。

そして生命は、最終的には、
他の個体から「受け身」で知らされるのではなく、
厳密には、自ら「能動性」を発揮することによってのみ、
“知ること”を成し遂げていきます。
本来、生命にはその意味での「能動性」が備わっているはずで、
自分が最後の最後には「能動性」を発揮しなければ
(要するに“知ろう”としなければ)
“知ること”はできないのです。

「受け身」で、
自分の許容量を超える量や速度や
興味の範囲を超えて知識を注ぎ込まれると、
「能動性」は知識を得ることには発揮されず、
この危機的な状況を回避する方法を見つけるために発揮され始めます。
それも生命の持つ“知”の力であり、生命ならば当たり前の反応なのです。
ある子どもは勉強がイヤになった、と泣き叫ぶことで自己主張し、
大人に自分の思いを伝えることで、大人に理解してもらい、配慮してもらい、
危険を回避し、楽しく学習を続けられるかもしれません。
また、ある子どもはイヤだと言うことも危険だと感じていて、自己主張できず、
学習が苦しくなり始めてしまい、
傍目からは、ずるをして避けているようにも見え始めるかもしれません。
不思議ですが、これでも立派に能動的に、
自分が生きていくための所作を様々な素材から組み合わせて統合し、
実行に移す“知”の営みを行っているわけです。

生命がことあるごとにこのような危機的な状況に出会い、
その都度、危険を回避しながら道を変えて突き進みはじめると、
子どもも大人も、どんどん自分を見失ってしまい、
生命の輝きがくすんでいってしまうように思えてきます。
でも生命は常に正しい選択をしています。
間違うことはないのです。
でも、なかなか抜け出せない袋小路に入って
グルグル回り続けることで問題は解決しないまま、
先に進むこともなく、命を永らえているかのようになることもあります。

それならば、その前の危険を回避したところまで道をさかのぼって、
あの時はイヤだったんだ、本当はこうしたかったんだ、と
今だったら表現できる自分の思いを感じ取って、
親しい人に伝え、受け止めてもらい、
その時とは状況が変わった今ならば、
危険を感じることなく、元の道に戻ろうと、
生命が選択できるようになる場合があるかもしれません。

子どもは、本来の自分を見失うと、
本当に大事な自分の思いを言わずに、
袋小路に入った先の本当はどっちでもいいようなことを執拗に主張して、
不本意にも親を困らせてしまったりします。
子どもは「先に進みたい」
「自分への親のお願いをちゃんときいて
立派なお兄さんお姉さんになりたい」と、
本来は思っているものです。
だから「(ついつい関係ないことで文句を言ってしまったけど、)
本当はこっちの道に進みたかったんだ」という思いを
子どもが表現できるよう大人が手伝ってあげることで、
本来の道に子どもを導いてあげることができるかもしれません。

それが子育てにおける大人の役割で
忘れてはいけないことのひとつのような気がします。

“知ること”は希望に満ち溢れています。
本来、“知ること”は楽しいことなのです。

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