ことば試着室
〜「こんな“愛”の問題」の巻〜
2008.12.26up(2008.3.20作)
「ことば試着室」へようこそ。

生物というものは、
自分の生命の維持や種の保存のためになることばかりを
できるだけ無駄なく合理的にやるように
とても秩序立ってできているものらしいですけれど
(ここらあたりは子育てと関係ありますね)、
なんでもヒトだけがそうじゃないという話があります。

とは言っても、ヒトでもだいたいいつもは
直接的に自分のためになることや、
あるいはまわりまわって間接的に
将来、自分が気分よくなることに繋がるぞ、と
ぼんやりとでもどこかで予感して、行動に移しているみたいです。

でもここが問題なのですが、
その自分のためにやっていることの中でも、
別にやらなくても自分が命を落としたり、
種を残せなくなったりするようなことというのはむしろ少なくて、
よくよく考えると誠に不条理で根源的には無駄なことだけど、
やりたくなったから仕方ないでしょ、とばかりに
やっているということが大多数のようなのです。
そして、それがやめられなくなる袋小路に
どうもヒトは陥っているかもしれないとも考えられるようなのです。
(子育てにおいても、純粋に生命を育てて
自分の子孫を残していくということだけでは、
ヒトの場合、済まなくなってくるわけです。
必要以上にお勉強させて
子どもに付加価値をつけようとするとか、その他諸々。
もちろん、根源的にではなくて
社会的には大変意味があることなわけですが。)

この考え方からすると、ヒトは、
他の生物と比べるとずいぶん変わった生物のようですが、
それを別に「変わっている」と意識せずに、
当たり前の(全くもって不自然なのに)自然なこととしてやっているという
不思議な面も持ち合わせているわけです。

まあ、それはそれでいいと思います。
そもそも「自分がやりたいからやる」というのは、
潔くていいではないですか!
すごくいいと思います。
ここで、単純に「ヒトってダメだ」とネガティブな方向に向かってみても、
あまりいいことはないような気がするのです。

そこで、世の中にはとても殊勝な方がおられて
「無駄は地球環境を破壊するからやめよう」ということで
エコロジーに繋がっていくことも
その一部でよく起きているようですが
(これは逆説的に聞こえるかもしれませんが、
「無駄をやめよう」というのも意欲的でいいですね)、
先の文脈から見ると、エコロジーも
かの「排出権」のような空気を売り買いしようという話になると、
あれを考えた人は賢いな、と思う反面、
空気にも経済的な発想やルールを持ち込むなんて
(そこがあれを考えた人の賢さでもあるのですが)、
ヒトはやっぱり無駄なことをするんだな、という気がしないでもなくて、
お金儲けとともに空気中の二酸化炭素は減っていくのでしょうけれど、
ヒトが袋小路から出られるようになるのは
まだまだなのかな?という気が私はしてくるわけです。
だから、せめて自分たちがどんな袋小路に入っているかは知っていて
それはなかなか出られないところで、しばらくはここを味わわなきゃいけないって
受け入れておくことが大事なような気も私はするのですね。

この袋小路のおかげで、ひょっとしたらヒトは滅びるかもしれないけど、
しかし、これはそれこそ無駄な袋小路ではなくて、
ヒトが先に進むためのプロセスかもしれないわけです。
多分、これはエコロジーをも含むヒトが直面している
さらに大きな問題のような気が私はするのですよ。


ああ、またわかばのことば名物の
だんだん難しい話になってしまいましたが、
ここが言いたかったわけではありません。


実は生物としては根源的に無駄と言っても
中には決して“捨てたものではない”ものもあって、
ヒトがやっていることの他の生物に真似できない一番すごいことは、
自分には直接的にも間接的にも何もメリットがないのに
他の生命を助けるために
時には自分の命を投げ出してまでして行動してしまう、ということが
確かにあるようなのです。

そして、そこまでやったら
ようやくこれを「愛」と呼ぶ、と考えている人もいるようですが
(これは厳しいですよね。
厳しさの中から優しさが生まれるっていう感じですか?)、
厳密に考えると、どこから「愛」と呼んで、どこからは「愛」と呼ばないかは
とてもややこしい話になって、
また日本では、「愛」という概念自体、普遍的ではなくて
歴史的にかなり新しい概念ではないかと言われてもいるようで、
まあいろんな議論が起こっているようです。

ともかく、
こうして考えると意外に根源的に「愛」というのは無駄の極地のようですが、
逆に、いくつかの宗教では「愛」を「神」とイコールであるというような表現でもって
根源的なものとして賛美して捉えていたりして
(「愛」の定義が違うのかもしれませんが)、
でも、まあ、宗教なんてヒトしかやってませんから、
なんかそこらへんにいろいろ事情があるような気もしたりして。

まあ、そんなことこんなこといろいろあるわけですが、
そこで、ようやく今回のご試着です。


恩知らずを気に病むかわりに、
むしろ恩知らずを予期しよう。

キリストは
一日に十人のライ病患者を癒したが、
キリストに感謝したのは
ただ一人だけだった。

キリストが受けた以上の感謝を
期待するのは無理ではあるまいか。


                (D・カーネギー『道は開ける』より引用)


これは、かなり冷たいことばのように思えて、
また私、誤解されてしまうかな、と
ご試着をお薦めするのを躊躇したのですが、
でも私は、これでずいぶん楽になったのですよ。
なんというか、ふっきれたのですよ。

自分のためには間違いなくならないし、
しんどいばかりで、
それに輪をかけて自分は感謝されないだろうな、と予感するけど
やらなければいけない事態に陥ることが
現実にたまにあるわけですが、
そのとき、客観的に考えて多分世の中のためになるようなことなら、
自分にとっては無駄であることを意識してそれでもやる、ということを始めると
(まあ、私の場合、些細なことなんですけどね)、
なんというか整理がついて、意外に楽になったのです。
これ、意識しないと始められないと思うんですよ。
(別に、やりたくなかったら断ってもいいんですけどね。)

あっ、「楽になる」から意識する、というのは、
「自分のため」ですねー。
あるいはひょっとすると、これが「愛」だ、と意識すると
ちょっと気分がいいや、ということもあって
それでもってやっているのかもしれなくて
(キリストも「愛」を説いていたわけですからね)、
私はまだまだのようでもあります。
よく分かりませんが。

いろいろ考え始めると、うまく説明つきませんが、
どうやら、決して悪気はなくて代わりに罪悪感もないのだけれど、
人のことを利用してでも自分だけは生きていこうとする人が
あちこちに増えてきているらしい昨今、
そして、人ごとでなく、うっかりすると自分も、
意識せず人を利用して
自分の踏み台にしてしまうかもしれないしんどさを
個人が背負わされている昨今、
そんな中でなんだか、自分にとっては無駄だし、
感謝もされないだろうと思っていても
「やる」ということを意識しておくことが
そこらあたりの突破口になるような気が、私は今のところしていて、
時々試してみています。


ああ、それから、もうひとつ。
かと言って、「人に感謝することを忘れないで」ということも
このことばから教訓として感じるのですね。
きっと、ちょっとしたことでも
人や動物や虫や植物にまでも感謝を感じることが出来れば、
それはとても幸せだと思うわけですよ。


・・・ということで、
今日のご試着は、お気に召しましたでしょうか?

・・・ええ、じっくり味わってみたけれど、
お気に召さないってことも、ありますから、大丈夫。

次のご試着をお楽しみに!

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