発語がなく、コミュニケーションをとる方法がない

 

2008.2.26up

<目次>

(1)伝わらなくてもなんとかなる?
(2)言葉で行動を律することができるのか?
(3)「察する」ということ
(4)「察する」三昧
(5)発語がなくても伝える方法
(6)「録音音声型VOCAを使ってみよう」ということになると・・・
(7)ひとつしかスイッチのないVOCA


(1)伝わらなくてもなんとかなる?

年齢に関係なくお子さんに発語がほとんどないと、ご両親はとてもコミュニケーションがとりにくく困っておられるのではないかと、いつも私といたしましてはお察ししてしまうわけなのですが、実際にご相談の中でストレートに「そこが一番困っているところなんだ」と助言を求められたことってあるだろうか?…と私の場合を考えてみると、意外にそんなにないような気がします。

それで良いか悪いかはともかく、言葉の相談というと、「年齢と比較して遅れているのではないか?」というところが一番心配になってしまう傾向があるようで、「コミュニケーションがとりにくい」という実生活上の困り感は二の次、三の次になってしまうのかもしれません。

反面、ご両親はあまり困っておられるようではないのだけれども、お子さんが兄弟姉妹・友達・先生・初対面の人に、例えば「おもちゃを貸して欲しい」のような自分の思っていることを伝えられなくてトラブルになることや、損をしてしまうことや、うまくいかないことがあって心配だ…というご相談は、時々お受けしているような気がします。

そうした話とは関係があるのかどうかは分かりませんが、大きいお子さんのご相談でよくお聞きする話で、「言葉がなくても家で困ることはない。毎日やっていることは同じなので、だいたいうちの子が次にやりたいことは分かるから」ということもあるようです。

親しい仲になると、言葉がなくてもツーカーになる…ということでしょうか。これはとてもすごいことですよね。そういう力があるというのもすごいですが、それだけ分かるようになるためにはそれだけお子さんの様子を見て、理解してあげていないとできないでしょうから、そんなご両親がすごいと思います。

こうなってくると、まあ、あとは外出中に突然トイレに行きたくなったときにすぐ分かってあげられるようにと、「トイレ」のサインや絵カードを示す方法等でお子さんから伝える手段を確保しておけばいいか…ぐらいになるかもしれません。しかしここでも、馴染みのある場所でトイレに行きたくなれば、お子さんは意思表示せずにそのまま実際に行ってしまってサインなんか必要ない…ということもあるかもしれません。

小さいお子さんの場合、まだまだ生きていく上での可能性を広げてあげることは大事だと思うので、困っていなくても言葉の発達を助けていくことは必要であると思いますが、特に成人の方の場合で、発語はないのだけれど、生活上、コミュニケーションで困っていることはない、毎日楽しく過ごせている…というのであれば、改めて言葉の相談は必要ないのかな…と、私はそんな気がします。ただし、学校や職場ではちゃんと「トイレに行ってきます」と意思表示して許可を得て、行ってもらわなきゃ困る…ということもありますから、社会に適応していくために、コミュニケーションの手段を新たに確保する必要が生じてくるかもしれませんね。それから、とにかくお勉強をすることが生きがいのようになっている方もおられるので、そういう場を相談の中で提供していくことも大切なような気もしています。


ところで、お子さんのまわりの人がコミュニケーションで特に困っていなくても、お子さん本人が落ち着かなかったり、不安そうな様子が多く見られたり、ひどくこだわることがあったり、自傷・他傷行為があったり…などなど、コミュニケーション以外で困ることがあるようでしたら、実はそれは、お子さんからすると、うまく自分の思いが伝わっていない、あるいは自分の中に確かにあるこの気持ちが何なのか自分でも良く分からないことからくる“心理面での不安定さ”が根っこにあるのかもしれないです。

逆に言えば、コミュニケーションをとってお子さんの思いを改めて言語化してあげて、理解してあげて、まわりの人が持っているお子さんのイメージをあらたに作り直していくことで、お子さんの様子が変わってくることがある…ということなのです。いや、それどころではなく、言語化できなくても(言語じゃなくてもコミュニケーションはできますので)、深いコミュニケーションを一緒に十分楽しめたというだけで、お子さんの様子が変わってくることもあるようなのです。

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(2)言葉で行動を律することができるのか?

発語がほとんどないお子さんの「“おもちゃを貸して欲しい”など、自分の要求が思い通りにいかないとママや兄弟姉妹や友達をすぐ叩いてしまう」といった“困ったこと”への助言の定番で、昔からよく言われているのが「言葉を話すようになれば、言葉で伝えられるから叩かなくなる」あるいは「言葉で自分を律することができるようになるから叩かなくなる」というのがあります。

真のコミュニケーションの“深み”というものについて考えてみたいので、このような助言の話を出してみましたが、私が思うに、この助言は半分は本当ですが、半分はうまくいかないことがあるような気がします。理屈はすごくごもっともなんですけれどね…。

たしかに、うまく子どもが自分の思いを言語化して、上手に表現して、さらに相手に受け入れてもらえたなら叩く必要もなくなるでしょう。

発語のないお子さんの場合、伝えられさえすれば相手にあっさり受け入れてもらえる些細なお願いもたくさんあるわけですから、もしお話ができて伝えることができるようになれば叩かなくても大丈夫なことも多くなるでしょう。

でも、受け入れてもらえなかったらやっぱり叩いてしまうかもしれません。そこらへんで「あくまで言論を闘わせて自分の要求を勝ち取る」ということができるほど子どもは成熟していないでしょうからね(笑)。

仮に発語のあるお子さんで考えてみますが、この場合、叩きそうになるのを大人が手で止めてあげて、「おもちゃを貸してもらえなくて、くやしいね」と子どもに共感してあげればいいかもしれませんが、ここでもし「他のおもちゃでいいでしょ」などと大人に言われ、本人は他のおもちゃでお茶を濁され、納得いかないままの状態になっているのだけれど、まわりの大人はその子どものもやもやした気分に気付いていないという場合、これはコミュニケーションがうまくいっていない感じになりますよね。「ディスコミュニケーション」という和製英語があるようですが、そういうものでしょうか。

そこでまた数分経って、その子が再び「おもちゃを貸して」と言葉で頼んでみたという場合には、今度はもうおもちゃを借りるということ以前に、子どもはすでにちょっとしたストレスフルな出来事がもう少し加わればすぐにそのもやもやした気持ちが爆発してしまう…という状況であるかもしれないので、相手の子どもに「ちょっと待って」と、“待たされた”というだけで叩いてしまうかもしれません。

この場合は、さかのぼって「さっき貸してもらえなかったのがくやしかったけど、ガマンして他のおもちゃで遊んでくれていたんだね。でも、もう待てないくらい腹が立っていたんだね」とそこから慰めなくては、子どもは落ち着けないかもしれません。

これはまた別の機会にもう少し詳しく書こうと思っていますが、このように発語のある幼児でも、自分の気持ちを大人のようにコントロールするのは大変なこともありますので(この場合、言葉というよりも、自分の気持ちとの付き合い方が上手になることと関係があるわけですが)、やみくもに「人を叩いてはいけない」と言葉だけで律しようとしてもそう簡単にできるものではなくて、分かっていても叩いてしまうということになってしまいます。残念ながら“言葉”は万能じゃなくて、今ひとつのところがあるのですね。

そこでまわりの人たちに許されるやり方で怒りを表現できるように大人が子どもを導いてあげる必要があるかもしれません。「人を叩いてはいけないよ」と一応は伝える必要はありますが、毎回言わなくても子どもは分かっているもののようです。逆に「叩いてはいけないのにまた叩いてしまった」自分を内心責めていることもあるようです。かといって、人を叩いても子どもをそのままほうっておくことが日常化すると、子どもは「何をやっても怒られない、自分は見捨てられているんだ」と感じることもあるようで、ちゃんとやってはいけないことはやってはいけないと、枠を作ってあげておくことは必要なようです。


さて、コミュニケーションがうまくいかない「ディスコミュニケーション」のような話は、発語のないお子さんの場合、得てして多くなりがちでしょう。いま現在あったことについて自分の気持ちをわかって欲しいということはもちろん、先ほど例に挙げた、おもちゃの貸し借りをめぐるトラブルの話のような、ちょっと前の出来事と複雑に絡み合ってしまった自分の気持ちをひも解いてもらえない場合は、もっと分かってあげにくくなります。さらに輪をかけて、その気持ちが解消されないまま、同じような体験が何度も何度も度重なってくると、“分かって欲しいこと”というのがどんどん時間の中に埋もれていって、昔のことになるとまわりの人がますます「察し」にくくなっていくせいもあるようです。言葉で表現できない分、誤解もされやすく、長い期間どうしても誤解に気付いてもらえない…ということもあるようです。


さて、ここで「察する」というキーワードを出しましたが、(3)では、それについて書いていきたいと思います。

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(3)「察する」ということ

クイズをひとつ。どうでもいいクイズで付き合ってもらうのは大変恐縮なのですが、これは「察する」クイズです。

私の今日の夕食は、パッタイ(タイ風焼きそば)でした。先日、私の兄が、パッタイの瓶詰めソースをくれたので、早速作ってみることにしたのでした。以前、私は、兄の家でパッタイを作ってあげたことがあったので、私がパッタイのソースをもらうと喜ぶのではないかと、兄はそれこそ「察し」てくれていたのでしょう。それで今回は兄が私にソースをくれたんじゃないか…と、今度は私が兄を「察し」ているわけです。

さてさて、材料をそろえて、下ごしらえをして、炒めて、皿に盛り、殻付き落花生があったので、ちょっと苦労して殻を剥き、細かく砕いてパッタイにトッピングし、レモンをたっぷりかけて食べました。

さて、一口食べた次の瞬間、私はどんな独り言を言ったでしょうか?ちょっと「察して」みてください。こういうのは多分、あまりひねらず、素直に考えた方が当たるみたいですよ。

・・・。

答えは(3)の終わりで発表します。


さて、「察する」のは直感とか直観とかひらめきですから、とりあえずは客観性とか証拠とかいらないわけです。自分が「察した」なら「察した」ことになるわけです。しかし、察せられた本人から、「それは違うよ」と言われたりすることもあるわけですが。

科学的な枠内でやっている療育でも、「子どもから言葉を引き出すには、子どもが今やっている仕草にぴったりの言葉や今子どもが言いたそうな言葉を大人がマンガの『吹き出し』を付けるかのように添えていくと良い」などということが言われていています。これなんかは、なんで今、その「吹き出し」を付けるのかと、客観的な厳密さにこだわって頑張って考えてみても、それでは子どもが思わず一緒になって言ってみたくなって発語が増えていくことに繋がる…ということにはちょっとならないような気がします。むしろ「なんとなくこの場面にはこんな言葉が合っていそう」という軽い構えで「吹き出し」を付けた方が、コミュニケーションが円滑になり、子どもが大人のまねをして言ったり、自発語を言ったりすることを引き出しやすくなるような気がします。で、大抵、そういうやり方で行われているはずです。

だから、実践レベルの技法としては、(あまりはっきりとは言っていないかもしれませんが、)ひらめきや直観を用いることを前提として子どもとやりとりし、子どもの思いを察していくことをお薦めしているところがあるようになっているわけです。


話が少し横道にそれますが、科学的な新発見というのは、何もないところから必ずまず最初に直観やひらめきがあって、その直観したことやひらめいたことをあとから言葉でもって説明することによって成立するのだと、そんなことをマイケル・ポランニー(1891~1976)という物理学者・科学哲学者は言ったそうです。

もっと日常レベルで考えてみても、我々がなにか自分の思っていることを話そうとする時には、いつもなにかひらめかないと自分が何を話そうとしているのかも分からないわけです。なにもひらめかないと何を話していいのかも分からず、相手との間に重苦しい沈黙が流れたりするわけです。漠然とした中でたどたどしく意味のよく分からないままどこかで聞いたことのある台詞をしゃべっているうちに、なにかひらめくと焦点が生まれ、そこに向かって混沌としたものが統合されて、言いたいことがはっきりしていくようなことが起きてくることもあるかもしれません。

今まさにこの作文をしている私が、そうなっているわけなのですが(笑)。

あるいは、例えば「パトカー」の絵カードを見せて「これはなんでしょう?」と質問して、答えてもらうという場面でも、相手は、まず無意識にその絵カードに書かれている平面的な図柄から自分の網膜に届く光の刺激を感じとり、脳内でただの光の刺激であるそれらが線や色彩のかたまりみたいなものであることをなぜか直観し、そしてそれらから奥行きのような立体的なイメージをなぜかさらに直観し、またさらに、これは「自動車」だが、自動車の中でも「パトカー」と答えた方がなんだかしっくりきそうだ…となぜかまたしても直観すると同時に言葉を与えて、はっきり意識にのぼらせるという作業を一瞬のうちにやってしまっているのではないでしょうか。

このように、何もないところからひらめくというのは、科学の立場からすると、まことに理不尽なことのような気がするものの、人間の営みは、高度な知的な作業においても直観の連続なわけであり、混沌としたものの中からなにかひらめいては焦点を作り物事を統合し認識していくということをしょっちゅうやっているのが実情のようであります。

そして、言葉が生まれてくるその瞬間というのはまさしく、この直観の真っ只中にいるわけで、乳幼児が自力でひらめき切れないというのであれば、大人が力を貸してあげて一緒にひらめいてみよう…ということを、かの“子どもの様子に「吹き出し」を付けて言ってあげる方法”ではやっているのではないかと、私はそう思うわけです。

テレビを見ていて、いつもよく見てはいるんだけどあまり存在を意識したことのない俳優さんが画面に映っているときに、そばにいた人がその俳優さんの名前を言ってくれて、それで自分はこれまでおぼろげだったこの俳優さんの存在をはっきりと認識することができるようになる…といったようなことに近いかもしれません。

いやいや、この解釈は、私がここらあたりのことはどうなっているのかとマイケル・ポランニーなぞを読んで、頑張って考えてみたら、そういうことではないか?と今のところ思っている…ということなので、あまり一般的なものではないです。でももし、そういうことになっているのだったら、子どもの今の様子に本当にぴったりくる「吹き出し」を付けられている時というのは、それは子どもが感じている今のその子の状態…ということは、その子の身体や精神に大人が潜入して、その子の感じていることを統合して言葉にしてしまっているという不思議なことが起きていることにならないだろうか?…と私はそこまで考えてしまいます。さらに、逆にその大人の身体感覚や精神に子どもが潜入するということもあるかもしれません。

「潜入」というのは、マイケル・ポランニーの著書に、“名人が生徒に技能を授ける場合に生徒はお手本を示している名人の動作に外部から潜入しなくてはその作業を理解できない”とか、“チェスをする人は、名人が行った試合をたどることによって名人の精神に入り込み、名人が心に秘めていたものを発見しようとする”とか、そんな例を書いていたので、それにあやかってこんな言い方をしてみました。

このマイケル・ポランニーの考え方でいけば、我々は、音楽を聞くときには音楽家の動作や精神に潜入して共感していると思うし、いい役者さんの演技を見ているときもその役者さんの動作や精神に潜入して共感していると思います。スポーツ選手の所作をテレビで見ながらその身体感覚に潜入して爽快感を共有したり、ミスをする場面では一緒にあせったりすることもあると思います。

そして言語というのは、聞く側が話す側の発する言葉を通して相手の精神に潜入しているから意味が分かるのだ…とか、そんなことをマイケル・ポランニーは言っていますね。

言葉を発するためには、自分の知覚しているバラバラなものに焦点を作り統合させていく必要があるし、言葉の意味を理解するには“相手の精神への潜入”ができる必要がある、ということでしょうか。


ああ、難しい話になってしまいました。

そこで、さっきのクイズの答えですが、私はパッタイを食べて…

「うーん、やっぱりうまい」

…と言ったのでした。

とっても普通ですね(笑)。いわゆる「自画自賛」ですね(笑)。私に直接会ったことのない方や、私のことをもっと謙虚な人間だと思ってくださっていた方には(どうもありがとうございます!)、ちょっと難しかったかもしれませんね。



こんな感じで、今度は私じゃなくてお子さんが好きなものを食べた後、満足そうな顔をしていたら、「うーん、やっぱりうまい」と「吹き出し」を付けてあげると良いかも…と、そんなことでしょうか。もちろん、違う「吹き出し」でも良いわけですが。

それで、そんなことになってくれば、発語がなくても、あるいはわずかしか発語がなくても、「察する」ことで、うまくいけば子どもの思っていることがなんとなく分かってくるということも起きてくるわけです。

が、これは、専門家に教えてもらわなくても、多くの方が、すでになんとなくやられていることではないか…という気はしますね。でも、ちょっとこういうの苦手だな…という方は、自分の身体をリラックスさせて、間違っていてもなんだろうと何回も「吹き出し」を付けているうちにだんだん慣れて上手になっていくこともあります。やり方がいまひとつ分からなければ、専門家の中にはこういうのがなぜか得意な人もいますので、一回お手本を見せてもらうと感じが掴めるかもしれません。


ちなみに、言葉を用いずに子どもの様子から思っていることを察する場合は大雑把に分かってあげる感じになり、子どもが言葉を使えれば、より細かいことまで分かってあげられる…という違いがあるようです。

もっとも、心理学では「人が相手から情報を受け取っているとき、話されている言葉の内容からの情報量は全体の7パーセントにすぎず、あとは非言語コミュニケーションが占めている」などと、驚くべきことも言われているようですが。(「非言語が65パーセント」という説もあるようです。)

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(4)「察する」三昧

私、こうして隔週でメルマガを配信していて、書いている自分だけが分かるのかもしれませんが、恐ろしくみごとに、私的な気分の波の高低が意図せず行間に滲み出て表現されているように思います。正直申し上げて、どうも文章が理屈っぽいときは、やはり普段も理屈っぽいことばかり考えている時期になっています。そして、だいたい理屈っぽい時期は、しんどいような気がします。時にはうまく自己否定感に呑み込まれないでよくコントロールして書けているなぁ…という時もあるんですけれどね。

だから、みなさんは定期的に配信されるメルマガでもって著者である私の気分や最近どう過ごしているのかを察することができそうですし、私にしても、私自身の気持ちを自分の書いたものを読み返すことで一歩引いたところから察することができるんだなあ…とそんなことを感じます。


おいしい行きつけの店の料理(チェーン店じゃないところ)は、しょっちゅう行っているといつもちょっとずつ味に波があることに気付きます。あくまで私の経験ですが、とんかつ屋さんは衣の揚がり具合とか、肉汁の感じとか、主人が絶好調の日に行けばラッキーですね。ラーメン屋さんはスープが絶妙だったり、フランス料理屋さんは味のバランスがこれ以上ないような均衡を保っていたり、なんだかそこらあたりを味わって食べると、厨房にいる料理人さんと繋がっている感覚を得られる(つもりになる)ことがありますね。「料理人さんは、最近絶好調」とか「ちょっと心配」とか、味だけではなくていろいろ考えることもあります。ああ、しかし、その波は料理人ではなくて、味わっている自分の感じ方の波であるかもしれないな…とふと気付くこともあります。


長年追い続けているミュージシャンも後になって聴き返してみると、「この時期ってこの人、なんかあったのかな?」と察することがあります。あるいは「この時期なにか突き抜けたみたいだ」と感じることもあります。長年のファンだからこその特権であるわけですが。


自分について、あまりにうっかりミスというか誤作動が多い時期というのは、自分がいつのまにかしんどくなっているような気がするな…と自分のことを察してあげた方がいいかもしれない…と思います。ひとつのバロメータですね。


非言語コミュニケーションで人を察することができる例を挙げてみていますが(最初の私のメルマガの例はちょっと違うかもしれませんが、私が「最近、しんどいです」と直接書いているわけではなく「行間に滲み出ている」ということですから、非言語な部分で感じていただくことだと解釈してください)、むしろこれらは非言語だからこそ漠然とだけれど深く何か感じられる…ということなのかもしれませんね。

さて、ここからは子どもについてですが…。


小さい頃からずっと落ち着かず、動き回ってしまうお子さんにも波があって、「最近は落ち着いているな」という時期もあれば「どうも最近落ち着かない」という時期もあるようです。「落ち着かなくなるきっかけがあるんですよ」と相談の中で私からお話して、ご両親に観察してみるようお薦めすると、たいていその後は、今回落ち着かなくなったきっかけについてご両親はちゃんと思い当たれるようになられていて私に説明してくださるようになることが非常に多くあります。思い当たれたことが発展し、お子さんとのさらに深いコミュニケーションが進み、お子さんのことをもっと分かってあげられるようになるみたいです。


吃音のあるお子さんも、心配事や気にしていることがあると症状が強く出やすくなることが多いようで、これも意識していてあげると、お子さんの気持ちを察することができ、親子がより深く繋がるきっかけになるようですね。


こだわり、自己刺激行動、自傷行為、独り言、等々でも同じことがあるようです。


子育てがテーマのテレビ番組で、親子何組かがスタジオにいて、司会者にインタビューを受けるようなものや、ドキュメント番組等で社会的な問題の渦中にある家庭にお邪魔し、パパやママが子守りをしながらインタビューを受けるような場面が放送されることがありますね。そんな時、意識して観ていると気付きやすいと思うのですが、突然、脈略なく子どもが泣き始めることがあります。一般的には言葉が分かっていない…と思われている赤ちゃんが泣き始めることもありますが、そのとき、インタビューで大人たちが何を話していたのか思い起こしてみると、意外に不思議な気分になれたりしますので、機会があったら是非、チェックしてみてください。偶然、子どものオムツが濡れちゃったり、おなかがすいたり…ということもあるのでしょうけれどね。


しかし、現実に相談中に私とママがお話していると、さっきまでおとなしく遊んでいたお子さんが突然、ダダこねしだしたり、遊び方が乱暴になったり、脈略なく(本当は脈略ないことはないのですが脈略なく思われる、ということです)泣き出したり、話の筋に合わせるかのようにちょうどいい切れ目で急にママのところに来てひざの上にひょこんと座って、ママも私もびっくりしたり、話をさえぎるかのようにさっき行ったばかりのトイレにもう一回行くと言い出したり…ということが、毎日のように起きています。偶然かもしれませんけれど、その割にはかなりの高頻度です。

普段の生活の中で、大人同士が話をしているときにお子さんが前兆もなく泣き出すとか、落ち着かず乱暴になるというような場面で、「何で泣くの!」「何でそんな乱暴をするの!」と子どもが怒られてしまうことになることも多いのですが、わけが分からない変化であればあるほど、今、大人たちが話していたことが気になってしまって、気持ちがうずいてしまったんだ…と察してあげないと、理不尽な怒られ方をされてかわいそうなこともあるので、ちょっと意識してあげた方がいいこともあるかもしれません。今、なんの話をしていたのかちょっと思い起こしてみると、子どもの深い思いを察するヒントが隠されていることがあるかもしれませんので、試してみても損はないと思います。実際、そうした反応を手がかりにお子さんの気持ちを漠然とでも察して共感していくことで、どんどん親子の結びつきは深まっていくようでもありますよ。


青年期くらいのお子さんについて「たびたびパニックを起こす」という相談で、よくよく様子を見てみると、気持ちがうずいて当たり前の言葉かけを周囲からずっとされているではないか…ということがあります。いえいえ、恐らく、周りの人たちは悪気がないのです。でも、敏感でナイーブな人なら気にして当然のことなんだけど、我々は大分そこらあたりで自分の感情にブレーキをかけることに慣れて、感受性をわざわざ鈍らせているようで、自分たちも平気だからこれくらい言っても平気でしょ?とばかりに言ってしまうみたいです。私も人のこと言えませんけどね…。あと、「この子は何を言っても分かっていない」という見方もこの傾向に拍車をかけるようです。


さて、(5)では、もっと日常的なやりとりについて発語がなくてもコミュニケーションを手助けしていく方法について述べていきますが、ここまで紹介してきた「察する」コミュニケーションは実用的でないように見えて、(5)で述べていく方法よりももっともっと深いコミュニケーションを実現するものであるので発語のないお子さんと暮らしていくためには、非常に大切なものであることをいくら強調しても強調が足りないくらいです。それくらい、ここをおろそかにされているために苦しくなっている子どもは多いと、私は感じます。

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(5)発語がなくても伝える方法

(音声言語による)発語がなくても伝える方法を、専門的にはAAC(augmentative and alternative communication:拡大・代替コミュニケーション)などと言います。運動障害のため発話が不明瞭な方の場合に用いられるものもあるのですが、驚くなかれ、きちんとAACであると認識されていて私が知っているものだけでもこんなに種類があります。


(A)表情

(B)身振り・ジェスチャー

(C)読唇
 声なしで口パクで伝える方法。

(D)空書
 指等で宙や相手の手に文字を書いて伝える方法。

(E)サイン言語
 手話のような方法で、「マカトンサイン」と言われるものが有名。

(F)くち文字盤
 例えば、話す人が「トイレに行きたい」と言いたい場合、まず最初の「ト」を伝えるために、話し相手の人に50音表をイメージしながら「アの段、イの段、ウの段、エの段、オの段」と言ってもらう。「ト」は「オの段」の文字なので、話す人は「オの段」のところで、まばたきや指を挙げるなどの合図をする。続いて、話し相手の人は「オ・コ・ソ・ト・・・・」と言っていき、話す人は、「ト」で合図する。これを繰り返し、一文字ずつ話し相手に言いたいことを伝えていく方法。

(G)書字
 えんぴつ等で紙に書く方法。

(H)メッセージ・ボード
 日常的にお願いする頻度の高いことを(テレビが観たい、ジュースを飲みたい、寒い、など)、メニュー表にしておき、伝えたいときはメニュー項目を指差しするなどして伝える方法。

(I)コミュニケーションボード・文字盤
 50音表を使って一文字ずつ指差しながら伝えていく方法。また50音だけでなく、YES/NOやよく使う単語なども書いておけば効率がよく便利。

(J)透明文字盤
 透明なアクリル板に50音表を書いた透明文字盤を使い、話す人に一文字ずつ伝えたい文字を見てもらい、話し相手の人は、透明文字盤越しに話す人の目を見ながら、話す人が今どの文字を見ているのかを判別しながらコミュニケーションしていく方法。

(K)P&P(Picture & Package)
 身近な人やよく行く場所の写真やよく食べるお菓子等の袋の一部を切り取ったものを使って、お願いしたいことを指差し等で伝える方法。

(L)図形シンボル
 カード等に書かれた図形シンボルを示しながらコミュニケーションする方法。“もの”そのものから離れたシンボルを使うので、より言葉に近い方法であると考えられる。

(M)コミュニケーション・ノート
 伝えたいことを絵や写真や文字等で示すことのできるノートを使う方法。市販のものもあるが、自分専用のものを作ってもいいかも。

(N)コール(呼び鈴)
 人を呼ぶために使用。呼吸器をつけた人などにとっては、命を守るための大事なコミュニケーションの手段です。ひとつ故障しても大丈夫なように、コールは2・3個用意した方がいい…などと言われます。

(O)録音音声型VOCA(携帯用会話(音声出力)装置)
 あらかじめ介助者が機器に録音しておいたメッセージを話す人がスイッチを押す操作を行うことによって音声表出する方法。スイッチが1つのものから数十個のものまでさまざまな種類がある。またスイッチの大きさも、指先で押すものから手のひらいっぱいで押せるものまでこれも様々な種類がある。

(P)合成音声型VOCA(携帯用会話(音声出力)装置)
 話す人が機器に話したいことを文字入力することにより、音声表出する方法。最近は、なんでも駅や店内アナウンス等で使われている人工音声を開発している会社が作ったものもあって、ワープロの漢字変換のように文字入力された文字から単語を認識し、きちんとその単語にあったイントネーションを付けてしゃべってくれるものまである。方言にも対応できるらしい。

(Q)意思伝達装置(パソコンソフト)
 パソコンの画面上にメッセージボードのメニュー表や文字盤が表示され、メニューや文字の文字色がひとつずつ順番に反転していくので、自分が伝えたいところが反転したところでスイッチを押して音声表出や文書作成を行うことのできる方法。

(R)ワープロ、電子手帳、携帯電話のメールや写メールの利用
 文字を打って画面に表示して伝えることもできるし、写メールの写真を見せて人や場所を伝えることもできる。「子どもが教えてもいないのにいつの間にかこんなコミュニケーション法をするようになった」ということも起きているようです。

(S)通信機器
 発語によるコミュニケーションが困難な人が、遠く離れた人とのコミュニケーションでファックス・電子メール等を用いることも、AACの手段として考えられているようです。

(T)スイッチ
 かつてはAACをやる人は、市販の機器があまりなかったので、その人にあったスイッチを作るために半田ごてと共に仕事をしていたという話を聞いたことがあります。VOCAやパソコンのスイッチを押しやすいように、今では大きいものから小さいものまで、そして、ちょっとした筋肉の動きでスイッチONできるもの、光を使ってちょっとした身体の動きを感知しスイッチONできるもの、ストローを吹くとスイッチONできるもの、などがあるそうです。意思表示をするためにスイッチがあるわけですから、スイッチだけでもAACと考えられているようです。これはちょっと関係ありませんが、自分の心の非常事態を知らせるために施設の非常ベルのスイッチを押して意思表示される方もおられますよね。あれは社会的には許されないAAC(?)ですが、どうか「察して」あげてくださいね。


…こんなところですが、他にも探せばどこかで誰かがまだ別の方法を編み出して試してくれているような気がします。ちなみに、文献によって挙げられているAACの種類はまちまちなので、(A)~(T)は数々の資料を基に私がひとまずまとめたオリジナルの分類です。

一応、

(A)~(F)のような道具を使わない「非エイド」と呼ばれるもの、

(G)~(M)のような非エレクトリックな道具を使う「ローテク(非電子エイド)」と呼ばれるもの、

(N)と(T)のようなエレクトリックだけど割に単純な「シンプルテク」と呼ばれるもの、

(O)~(S)のようなエレクトリックで割に複雑な「ハイテク」と呼ばれるもの

…に大別されるようです。

AACを用いる場合には、ひとつの手段にこだわらず、複数の方法を併用するつもりでいた方がいいようです。例えば、ハイテクを使いながらも、単純なYES/NOはジェスチャーでやった方が簡単…というような場合や、録音音声型VOCAを使いつつも、細かい伝えたいことは文字盤で知らせる…というような場合などがあるからです。

「AACを用いるということは、発語によるコミュニケーションをあきらめるということか?」ということになりそうですが、さにあらず、近年、逆にAACを用いることで発声や発語を促すことができるという考え方が専門家の間では常識となっているようです。実際に、私の経験からしても、AACを用いると発声や発語が増える傾向が感じられます。

AACの中のどの方法を選ぶのかについては、その子どもの能力に合わせていく必要があるでしょう。

特に、AACを導入してみたものの、本人にまわりの人とコミュニケーションする意欲があまり芽生えていないのでほとんど使用されないままだ…ということもあるようです。

やはり、具体的な単語や文字を与えるより先に、人とコミュニケーションしたいという気持ちを膨らませていくことがことばにとっては大切なような気がします。

しかし、意外にも、子どもの能力に関係なく誰に対しても導入することが可能であり、むしろ使用することにより本人の能力やコミュニケーションの意欲を強めていくことが可能であると最近になって考えられ始められているVOCAの使用について、(6)ではお話してみたいと思います。

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(6)「録音音声型VOCAを使ってみよう」ということになると…

ここでは、録音音声型のVOCAについてお話します。VOCAを通して、コミュニケーションのいろんな側面が見えてきます。


VOCAはスイッチを押すだけで代わりにしゃべってくれますから、使ってみるとコミュニケーションの垣根がぐーんと低くなる感じがします。おしゃべりが自由自在にできる大人でも、言いにくいことはあらかじめVOCAに録音しておいて、目的の人の前に行けば、あとは思い切って一回スイッチを押すだけです。機械に言わせるんだからちょっと冷たい気がするかもしれませんが、意外にユーモアが感じられて、場合によってはかえってほんわかしますよ。


昔は、VOCAを使える人の条件というのがあって、ちゃんとそのボタン上に表記されている文字や絵やサインと言いたい物事とを一致させることができる程度の「表象」を操る力や、“自分がまわりの人や事物に働きかけることによって何かを起こすことができる”といった「因果関係」が理解できていることや、相手から話しかけられている言葉の意味を理解することができなければ、VOCAを与えたところでコミュニケーションなんて無理…と考えられていたようです。

しかし、近年、考え方はガラっと変わり、条件が整ったらVOCAを与えるのではなく、「VOCAを使えるようになる唯一で最良の方法は、VOCAを使ってみることである」という認識が徐々に広がりつつあるようです。

つまり、「表象」も「因果関係」も「言語理解」もVOCAを使用することでしだいに身についてくるものだ…というわけなのですが、ところがさらにそれらはVOCAを使用することで得られる「副産物」のようなもので、VOCAによって使う人にもたらされる最重要の恩恵は「活動に参加すること」であると、VOCAのプロフェッショナルの間では認識されてきているようです。必要条件などなく、そもそもが本来、「コミュニケーションは誰にでもできる」と考えられているようなのです。

うーん、これはずいぶん思い切った発想ですが、私も多分これは本当ではないかと思います。それはもちろん、コミュニケーションが困難ということはありますが、その困難さをVOCAで乗り越えることもできるわけです。もちろん、他にも方法はありますけれどね。


さて、VOCAにはスイッチが無数にあるわけではなく、数が限られているわけです。別に現代芸術的な“ミニマリズム”を追求したわけではなくて、多分、あんまりスイッチをいっぱいつけると機械自体がでかくなって持ち運びが不便になるとか、どこにどのスイッチがあったか訳が分からなくなるとか、そんな事情のためではないかと思います。

しかし、これがなかなか面白くて、例えば8つのスイッチがあるVOCAにどんなメッセージを録音しておくと使い勝手がいいかな?とアイデアをしぼり出してみると意外に夢が広がるものです。ちょっとミニマリズム的に楽しいです。いやいや、実はそんな呑気なことでなく、ここらへんが一番、VOCA一筋の人と、そうでない人との差を見せつけられるところかも知れないのですが。

ありがちなのは、お願い事…いわゆる「要求」の発話を録音しておけば便利なのではないか?という発想でしょう。その手のメッセージは、これから行く場所でどんなお願い事が必要かをあらかじめ想定して、録音しておくという場合にありがちかもしれません。“レストランに行く”というのだったら、「禁煙席にして下さい」「トイレはどこですか」「お水をもう一杯下さい」「大盛りにして下さい」…等々考えられますね。「ハンバーグ下さい」「ステーキ下さい」「カレーライス下さい」「エビフライ下さい」「サンドイッチ下さい」「サラダ下さい」「コーヒー下さい」「紅茶下さい」「ジュース下さい」「シャーベット下さい」「ケーキ下さい」「チョコレートパフェ下さい」「ヨーグルト下さい」…ああ、こうなるともう、スイッチが足りませんね!!まあ、そういう時は、「注文したいものをメニューで指差します」と録音しておけばいいのですが(笑)。別のAACを組み合わせて使うわけですね。

ここで、ちょっと発想を変えて、お店の人向けの「ありがとう」というお礼の言葉をスイッチひとつに割り当てておくと、コミュニケーションに深みが出てきそうです。お水を持ってきてもらって「ありがとう」、注文をとってもらって「ありがとう」(だって、お店の人が自分の伝えたいことを理解しようと一生懸命聞いてくれているのがなんとなく伝わってきますからね)、料理を持ってきてもらって「ありがとう」、レジでお金を払って「ありがとう」

VOCAのみならず、文字盤を使う人などでもよくあるようですが、いろいろ人に頼みごとをした後というのは、一言お礼を言っておきたくなるんだけど、「しまった、そういうの録音していなかった!」と悔やまれることがよくあるようです。挨拶の大事さというのが、VOCAを通して実感できますね。


こんなふうに、VOCAはお願い事だけで使うのではなくて、みんなと一緒にいるためのコミュニケーションの道具として使うこともできるのです。

出会った人に些細な質問をするというのも、人との仲を深めていくことに役立ちそうです。「昨日どんなテレビ見た?」「今日は家に帰ってから何するの?」

ちょっとした時事ネタを相手に話してみたら面白いことになるかもしれませんよ。「イチローの打率が3割5分になったよ」「台風がきているらしいよ!すごい台風なんだって」

自分のことをお話してあげたいときもあるでしょう。「僕のお兄ちゃんが昨日でっかい飛行機のプラモデルを買ったんだ」「あさっては僕の誕生日だよ」

この手のメッセージは、先ほどのお願い事のメッセージと違って、場所や時間や相手を選びませんね。これらを用意しておけば、いつでもどこでも相手がいればメッセージを発してコミュニケーションすることができます。また、これらのメッセージをスイッチを押して言うことにより、相手が自分になにか反応を返してくれるとどんどんコミュニケーションの意欲が湧いてきそうです。自分がなにかを周囲に起こす力を持っていることが実感でき、楽しくなってきそうです。

そういうことでしたら、VOCAにジョークを録音しておくというのもなかなか楽しいです。しょうもないことでいいんですけど、「ふとんがふっとんだ」とか「でんわにでんわ」とか。タイミングよく押せば、きっと大ウケですよ(ホントかな?)。最近では「そんなの関係ねー」を録音しておけば、VOCAを使う人も喜んでスイッチ押してくれそうですし、本人の周りからの人気も急上昇ですね!(ちょっともう旬を過ぎてダメなのかもしれませんが…)

あと、なぞなぞを録音して、相手に答えてもらうのでコミュニケーションというのもあります。「着ることはできないけど、脱ぐことはできるものなーんだ?」「答えは…だよ!」

ストレートに、「ねえ、こちょこちょして!」というのも楽しそうです。

これらのメッセージは、ことさらコミュニケーションを深めていくのに、とても効果がありそうです。VOCAを使う本人もスイッチを押すことで、周りの人がちゃんと反応してくれて、自分に言葉や行動で返してくれるので、VOCAでお話するのが楽しくなってくるようです。

おっと、ここでひとつ気をつけて欲しいのが、子どもがVOCAのスイッチを押せたときは、「よくできました」「よく押せたね」と褒めるのではなく、ちゃんと会話や行動で反応して返してあげることがとても大事なようです。VOCAでおしゃべりしている感覚がなんだかいいみたいです。あと、すぐに反応を返してあげるといい…というのですが、意外にここらへんは、コミュニケーションの意欲を伸ばしていくために行動療法でいってみよう…ということのようです。

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(7)ひとつしかスイッチのないVOCA

さらにミニマリズムを極めて(笑)、スイッチがひとつしかないVOCAがあります。その中でも、いくつかのメッセージをスイッチを押すたびに順番に言ってくれて、クラスのみんなに、
「キリツ」
「キオツケ」
「レイ」
みたいに、手順を指示できるようなものもありますが、ひとつのスイッチでひとつのメッセージしか録音できないVOCAもあります。

見た目で「こんなの買ってなんの役に立つんですか!」と私も実際に言われたことがありますが、これはなかなか役に立ちます。

勉強する子どもの机の端に置いておいて、問題が正解だったときに「できちゃったー」とVOCAで言うように仕向けると、なんだか本当にできるとうれしそうにしてくれます。勉強が楽しくなって、意欲も湧くようです。あまり発語のない人でも、一緒になってついつい「できちゃったー」と絶叫してくれたりします。

ふだんあんまり気持ちを出さない子どもさんで、今日は何をお願いしても乗り気じゃないなあ…という時に、「あー、ヤダヤダ」とVOCAで言うように仕向けると、何回も連続で押して言ってくれ、ストレス発散してくれます。(「押してみて」と言っても押せないということもありますので、その時は、手を持って少し誘導してあげるといいようです。一旦押し始めると、どんどん自分で繰り返し押してヤダヤダ言うのを堪能し始めることが多いです。)そこで「でもがんばるよ」と別のメッセージを途中で録音しなおしてあげて、どうぞ…と差し出してみると、納得いってないときはやはり知らん顔するので、じゃあ、もうちょっと…と「あー、ヤダヤダ」を再び録音しなおし、とことんこれでもかー、とヤダヤダを言ってもらったら、ようやく「でもがんばるよ」を押してくれたりします。ストレス解消にもいいみたいです。(笑)

そして、この1スイッチ1メッセージのVOCAと(3)(4)でお話した「察する」を組み合わせると、数の限られたメッセージではなくて、なんと無限に会話をすることができるようになるのです。

どういうことかと申しますと、そのときその人が言いたそうなメッセージを察してその場でVOCAに録音して(両手で2ヶ所同時にボタンを押せば簡単に録音ができるようになっています)、どうぞ…とその人のまえにVOCAを差し出してみるのです。

すると、とても面白いことに、“そう、今そういう感じ!”というメッセージだと、スイッチを押してくれるということが発語がまったくない人でも、よく起こります。別に言いたくもないメッセージだったらちゃんと知らん顔してくれることが多いので、そういうときは「ちょと違うか?」と、もう一度「じゃ、こんな感じかな?」とめげずに違うメッセージを録音してVOCAを差し出してみます。また却下されても、それを繰り返すうちに、“そう、それ”というメッセージを録音したときは、勢いよくスイッチONしてくれます。“違うけど、まあ、近い”というときには、ちょっと反応ゆっくりで押してくれることもあります。

中にはやはり、スイッチを差し出されるとなんでもかんでも押してしまう人がいるのですが、微妙に躊躇しながら押したり、すごい勢いで押したりで、なんとなく違いが感じ取れます。正解が録音する人にも分かっている質問をしてみて、違うときには押さないんだよ…と練習してみる方法もあるでしょう。

そう、この場合、私はVOCAに録音する係と、VOCAでお話する人の「話し相手」の係の二役をしているわけです。自分ひとりで会話するみたいになるのですが、ちゃんとコミュニケーションが成り立ってしまうのですよ。別に「話し相手」の人が見つかれば、もっとやりやすく会話が進みますけどね。

これで会話が成り立つと、VOCAで話す人はとても楽しいみたいで(だいたい、VOCAを一回使ってみると、面白がって“またあれを出して”と要求してくる人は多いです)、私などにも近づいてきては自分のひざや机の上を叩くジェスチャーをして「またVOCAでお話しようよ」と誘ってくるようになることは多いです。その時点で、コミュニケーションの意欲が増してきていることが、確かに感じられますね。発話がまったくない人でもとても楽しいようで、VOCAを使うことで発声がすごく増えることもあります。不明瞭だけれど、それらしい感じでVOCAと一緒になんとなく自発的に声を出して発語をしてくれることもあります。機械を使っているのだけれど、自分がお話しているような気分になって、ついつい本当にしゃべってしまう…というような感じでしょうか。


でも、まったくもって「察する」ことがはずれてしまう日は沈黙が続くわけなのですが…。

どうやら直感やひらめきを磨くのが、ここでも大事みたいですね。


(ちなみに、「着ることはできないけど、脱ぐことはできるものなーんだ?」の答えは「くつ」でした。)

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