<目次>
※このページは、わかばルームでのセラピー以前の基礎中の基礎の教科書的解説です。(わかばルームはこのページに書かれていることを基礎にして改良重ねた独自のセラピーのノウハウを持っておりまして、特に全く発語のないお子さんの発語を引き出すアプローチを得意としております。来室またはオンラインでご相談いただいた際には、必要に応じて詳しくご説明させていただいております。一方で、公に向けては未公開でありましたが、今後、少しずつその内容を公開していく方針といたしまして、「わかば式」セラピーのすすめページに、順次、綴ってまいりますので、そちらをご参照ください。)
(1)話し始めの時期をめぐって
子どもは言葉をいつごろ話し始めるのだろうか?と調べてみると、母子手帳や専門書や専門的なホームページには「初語(始語)は1歳」「1歳で1語文が出る」などと書いてあるのをよく目にします。
しかし一方で、割に一般向けのちょっとくだけた子育ての本やホームページなどを見ると「1歳で言葉が出なくても、個人差はあるのでとりあえずは心配しなくていい」などと書いてあったりして、結局どちらかというと「心配しなくていい」の方を多く目にするはずではないかと思います。
「心配しなくていい」の一言は本当に安心の一言で、救われる方もおおぜいいらっしゃると思います。無用な心配をせず、子育てを楽しめるのがやっぱり一番ですよね。
でも、一方で「心配しなくていい」と言われて心配しないでいられるかというと、そんな簡単なことではなくて、まわりの他のお子さんのおしゃべりの様子を見てどうしてもあせる気持ちが出てきたり、お母さん同士のお付き合いで肩身のせまい思いを感じてしまったり、「このままいくと小学校に入学する頃にはどうなっているんだろうか」と将来が不安になってしまったり…などなど、いろいろ心配をしてしまうのがあたりまえ、という状況が子育ての渦中にはいっぱいあるものだと思います。
さらに、そんな不安や心配を共有できる仲間が身のまわりにいればまだ心強いのですが(ママとパパがすてきな子育て仲間というのもいいですよね)、なかなか同じような境遇の「その感じ、わかるわかる!」と言ってくれる仲間が現れてくれなかったりするとなると、心配してしまう気持ちをどう整理つけていいのやら、難しいことになってしまうかもしれません。
でも、あなたのまわりに、きっとあなたの気持ちを受け止めてくれる子育ての仲間、あるいは支援者(先生・専門家・援助者)が見つかることを信じて、あきらめないでくださいね…。
さて、実際に言葉の発達に詳しい専門家を訪れて尋ねてみた場合、「とりあえず心配しないほうがいい」と言われることも多く、かと思えば「念のために専門的なサポートを受けた方がいいのでは」と勧められたり、あるいは「こんなになるまでのんきすぎる」と厳しく言われてしまったり(ご両親を責めてもなにも解決しないのに…)、対応がまちまちで、相談に行かれるご両親にとっては非常に不安で緊張することであると思うのですが、いったいこれは同じ「言葉が遅い」ということなのに、何が違うというのでしょうか?
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(2)言葉が遅いのはどうしてなのでしょうか?
一口に「言葉が遅い」と言っても、“その原因はさまざま”と想像するのは、たやすいのではないかと思います。そして、その原因によってその後、子どもにどう対応していくべきなのかが、さまざまに異なってくるというのも、ご理解いただけるのではないでしょうか。
ですから、専門家によくある考え方としては、支援を行っていく前にまず、「どうして言葉が遅いのか?」について、いろいろ“ああでもないこうでもない”とその原因を探ろうとして、発達のさまざまな側面を疑ってみては、確かめて…を繰り返し、なんとか遅れについての「仮説」を立てようとするわけです。
その手続きをするために、ご両親からお子さんの胎児期から今日に至るまでの経緯(いわゆる生育歴)をお聞きすることが必要になってきたりもします。
もとより、常日頃、「うちの子はどうして言葉が遅いのか、原因を知りたい」と思われているご両親も多いのではないかと私は感じていますが、“これまでどんな感じでお子さんが育ってきたのか”という情報は、言葉が遅れている原因を知る上でとても重要になってきますので、支援させていただく側としては、いろいろ教えていただけると非常にありがたいです。
しかし、一方で、“初対面の人に一部始終を話してしまうことに抵抗を感じる”というのも当たり前だったりしますよね。
私はご両親にはなるだけしんどい思いをして欲しくないと思うので(どうしても難しいときもありますが、その時はすみません)、しだいに相談の場に慣れてきて、話したくなったときに話していただければいいのかな、と思っています。
パーっと霧が晴れていくように、早く原因を突き止めて解決することが大切な相談もあって、そういうことができたときはスッキリ気持ちがいいものですが、急激な変化は時に意外に大きなしんどさを伴うこともあって、ですから、お子さんのことをご両親が主役となって援助者と一緒にゆっくり分かっていくという作業を進めていくことが大切な相談もあるような気がします。
また、実際にお子さんと専門家が一緒に遊んでみたり、課題をやってみたりして、原因を探ることも必要になってきます。検査を行うのもそのひとつの方法です。
ただし、相談室「わかばルーム」では、あまり積極的に、あるいはルーチンに、標準化された(要するに、同年齢の他の子どもと比較して、お子さんの知能や発達が相対的にどの位置にあるのかを明らかにする)検査を行うことはしていません。
追々、社会の要請として、お子さんの知能や発達が年齢相応なのかを問われることがあるかもしれず、その時はさまざまな側面からできる限りの支援をさせていただきたいと思っていますが、本当にその時点でお子さんの知能や発達をものさしで計る必要があるのかについて、「わかばルーム」は慎重さを保つよう、こころがけています。ただし、お子さんのどんな側面を応援していけばいいのかを知るために検査が必要なときや、検査を用いないとどうしてもお子さんの発達について把握しきれないときなどには、保護者にご説明をし、ご了解いただいた上で、検査を行うことにしています。
さてさて、話が少し横道にそれましたが、専門家の鉄則として、「言葉が遅い」という場合にまず確かめないといけないのは、「聴こえているか?」についてだと言われています。
おうちでも、「後ろから呼びかけても振り向かない」「好きなおもちゃの音や音楽が鳴っているのに振り向かない」「突然の音に驚かない」といった様子に気付くことがあるかもしれません。
ただ、「呼びかけても振り向かない」というお子さんの中には、“聴こえているけれど人と関わるのが苦手であるため”だという場合もあります。
「振り向かない」というほどではなくても、一見、コミュニケーションするのが嫌いな感じで(実は、人と関わりたいという気持ちをいっぱい持っているのに、いざとなるとどうしても苦手、ということだったりするのですけれど)、遊んでみてもそっけなくて一緒に遊んでいる感じにならなかったり、自分から周りの人に働きかけていくことがなかったり、視線が合わなかったり、抱っこを嫌がったり…などというお子さんで、言葉が遅れることがあります。
また、楽しく人と関わることができているのに、言葉が遅いというお子さんもいます。その場合は、“聴こえてはいるけれど、聴いたことを頭の中で操作したり覚えておいたりすることが苦手”だったり、“自分の身体や自分の身のまわりのものに関わって自分の中に世界のイメージを築いていくことが苦手”だったり、“落ち着かず、自分の興味のあることにしか集中しないため、知っている言葉に偏りができて”しまっていたり、“運動そのものや運動の手順を頭の中でプログラムすることが難しく、
うまく発話の動作ができない”ことがあったり、"生まれたときからの、あるいは生後に受けた脳の言語中枢の損傷のために、なかなか言葉が伸びていかない”など、さまざまな原因が考えられます。あるいは、2つ以上の原因が重なっている場合もあります。
かといって、いずれも、“幼児期からもうあきらめなくてはいけない”というようなことではありません。発達の速度に、速い/ゆっくりの個人差はあっても、どんな子どももまだこれから伸びていく可能性を必ず持っています。そして、子ども自身も“まだまだ自分は成長していきたい”という願いを、(どんなに持っていないように見えても)心の奥深いところでは必ず持っているものです。だから、そんな可能性を大切にしてあげて、そして、成長したいという子どもの気持ちを奥深いところから引き出してあげて、しっかり共感してあげて、満たしていってあげることが、たとえ障害があっても、なくても、その子どもが“生きていく意味”を見出していく手伝いをすることにつながっていくのではないかと、そんなふうに私は経験上、思っています。
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(3)ことばのために必要な2つの三角形
さて、それでは、子どものことばを伸ばしていくためには何をすればいいのでしょうか?
まず「絵カード、絵本、そして実物を見せながら、ものの名前を言う練習をする」という方法がありそうですね。実際に、お子さんの言葉を心配して、練習している方もおられると思います。
この方法は、ある程度の条件がそろえば確かに効果的だと思います。ママに楽しく、物の名前を教えてもらいながら遊ぶなんて、子どもも喜ぶに違いないし、ママだって楽しいと思います。
しかし、ことばを身に付けていくというのは、ただ単にものの名前の“音声”を記憶していくということだけでは済まなくて、それ以前に、赤ちゃんがこの世に生を受けてから、後述のいくつかの側面で成長を果たすことが必要となってくるため、そのような“ことばを使い始める条件”がそろわないうちからものの名前を言う練習をしても効果が上がらない、ということがあります。やっぱり、わけが分からないことをさせられるのはイヤなものですからねえ。
あるいは、語彙(知っている単語の数)は少ないけれど、もうすでにことばを話し始めているという子どもでさえ、絵カード等でものの名前を覚えさせようとすると、苦手なことだし、「違うよ」と言われるとますます自信がなくなって苦手意識がもっと強くなるから、おしゃべりがイヤになってしまうということもあります。この場合は、子どもが絵カード等を好きになって興味を持ち、ものの名前にも関心を持ててくると、効果が上がりやすいのではないかと思います。
小さい子どもが日本語の全ての発音を正しく言えるということはありえなくてもうちょっと先になってから完全にできるようになることなので(個人差はありますが、おおむね目安としては4歳半以降になってできるようになります)、ものの名前を覚えることを目的としてやるならば、正しい発音を言わせることにはこだわらないでそれっぽい感じで言えたら良しとしてあげた方が、子どもの意欲は湧きやすいはずです。最初はそれで良いと思います。ただし、大人は子どもに正しいお手本を聞かせてあげるようにすることだけ気をつけてあげた方がいい、とは言われていますけれどね。でも「お魚だー」を「おちゃかなだー」などとついつい子どもと一緒になって言ってしまったりしますけれどね。(笑)
むしろ、大人が「○○はどれだ?」と問題を出しながらお手本を聞かせてあげて、子どもが絵を指さすような課題をしながら、正解のときは一緒に喜んで、楽しくなってくると、子どもがついつい大人のまねをしてものの名前を言ってしまう…というような方法が合っている場合もあるかもしれません。
あるいは、たっぷり「こんな練習嫌いだ!」と言いながら、(意外かもしれませんが、実は「嫌いだ」と言ってまわりの大人に嫌いなことを共感してもらった方が乗り越えやすいのです)、それでも大人が練習に取り組めるように手伝って、“課題ができた”という経験を積み重ね、苦手意識を乗り越えて、自信をつけさせていくことが、ひいては楽しくものの名前を覚えていくことにつながっていくということもよくあります。
しかし、「そもそも、ものの名前を覚えさせることを目的として子どもとやりとりしようというのが、間違っていないか?」「コミュニケーション自体を楽しむことにより、おのずと言葉は増えていくのではないか?」…といった考え方もあって、どちらかというと、今日、こちらの立場をとる専門家は多いのではないかという実感もあります。
具体的には、遊びや日常の生活の中で、子どもとの自然なやりとりを楽しむことに主眼をおいて、その中で、大人が子どものしぐさ等を見て、なにか言いたそうなことを感じ取っては代弁してあげたり、今、目の前で起きていることを大人が簡単な言葉にして実況中継してあげたり、ことばにならなくても子どもが声を出したら、大人もまねをしてあげることで発声を励ましてあげたり、子どもが言った言葉に、ちょっと付け加えたり、言い方を変えてみたりして(子「ブーブー!」に対して大人「大きいブーブーだね」「バスだね」と言ってあげる等)、その他いろいろ、さりげなくお手本を聞かせていくといった方法です。
この場合、子どもにまねをして言うことを強いずに、言わなくても素通りして、ともかく遊びややりとり自体を楽しむと良いと、そんなふうに言われています。子どもがコミュニケーションの楽しさに浸り始め、大人とのコミュニケーションの歯車が噛み合ってくると、なんとなくまねをする頻度は増えてくるようだからです。この方法のベースには「言葉は楽しくなければ身に付かない」という研究があるようです。私の実感からしても、多分その通りではないかと感じます。
絵を見ながらでは名詞を覚えることにどうしても偏ってしまいがちですが、日常の中で、コミュニケーションを楽しみながらの方法で言葉を覚えていけば、「おっきい」「出たー」「おんなじ」など、形容詞や動詞や抽象的な意味の言葉も名詞とバランスよく身に付けていくことができるというメリットもあるのではないでしょうか。
さてさて、いくらものの名前を覚えさせようとしてもうまくいかないことがあるかもしれません。それは、(3)の最初の方で書いた“ことばを使い始める条件”が子どもの中にまだ整っていないからかもしれません。それでは、赤ちゃんがどんな側面で成長を果たせば、“ことばを使い始める条件”は整ってくるのでしょうか?それについて、(4)以降から“2つの三角形”を紹介しながら説明していきます。『行動の三角形』と『三項関係』です。
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(4)行動の三角形
やまだようこさんという学者さんは、人間の行動を「うたう」「とる」「みる」の3つの軸に分類して三角形で示し、著書『ことばの前のことば』で赤ちゃんがことばを発するに至るまでの発達をこの3つの軸を用いて説明してくれています。
(「行動の三角形」の図)
乳児期について、できるだけ短くまとめて言えば…
「うたう」:コミュニケーションの基礎で、人とやりとりし、それを楽しめること。
「とる」:“意図”を持って相手に物事を伝えることができるようになるための基礎で、物の世界での“原因と結果”の関係や、“目的を達成するために手段を用いる”ことが分かってくること。
「みる」:目の前にないものでも頭の中にイメージのようなもの(表象)を持ち、そのイメージのようなものに名前をつけたり(それが言葉になる)、もっと大きくなってから現物がなくても言葉を頭の中で操作して考えることができるようになったりするための基礎で、物や人にすぐ触れるのではなく、距離をおいた状態で見ることができるようになること。
…ということになります。ちょっと難しいですね。(5)~(7)で、もう少し分かりやすく説明していきましょう。
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(5)「うたう」の軸
「はなす」とか「しゃべる」ではなくて、「うたう」なんですね。すごくうまいこと言ったなぁ、といつも思います。
3~4ヶ月くらいまでの赤ちゃんが機嫌よく目を覚ましているときに、抱き上げて、目を合わせ、顔の前で大人がゆっくり口を開けたり閉じたり、舌を出したり引っ込めたりしてみせると、赤ちゃんもその後につられるように同じ動きをしてくれることがあります。
生まれたての赤ちゃんは、「自分」と「自分以外」の境界線ができていないので、まだはっきりと「自分」と「相手」というものがあることに気付かず、世界は全部自分(自分という意識もない)であるような不思議な状態にいると考えられています。だから、これは赤ちゃんが大人のまねをしているというのとはちょっと違って、赤ちゃんと大人が一心同体に溶け合って生み出されているようだと言われもします。あるいは、これをやるときは大人の方も赤ちゃんの口の動きを引き出そうと、リズムを探りながらやるようになって、いつの間にか赤ちゃんに合わせる努力をしているみたいでもあります。
ちなみに、この「原始模倣」とか「新生児の共鳴動作」などと呼ばれているものは、3~4ヶ月頃がピークになって、赤ちゃんは手の開閉動作までも一緒になってやってくれることがあります。しかし、5~6ヶ月頃からはやらなくなってきて、8ヶ月頃には、「自分」と「相手」の間の境界線が出来上がりつつある過程で、今度は「意図的に」大人のまねをするようになってくるそうです。(「○ヶ月頃」と書いているのはあくまで目安ですからね。文献によっていろいろ違うこと書いてありますし。)
動作だけでなく、赤ちゃんとは実に気持ちがうつってしまいやすいもののようで、大人が赤ちゃんに微笑みかけると赤ちゃんもご機嫌になったり、逆に赤ちゃんが微笑んでいると大人も思わずニコニコしてしまいますよね。大人が話しかけると赤ちゃんも一緒になって声を出し始めることもあります。あるいは、ベビールームで一人の赤ちゃんが泣き出すとつられてみんな泣き出すこともあります。これらは「情動の伝染」と呼ばれていますが、先程の「共鳴動作」と同じで、意図的にまねをしているのではなくて、やはり赤ちゃんと赤ちゃんを取り巻く周囲の人の情動が一心同体に溶け合って生じていると考えるべきでしょう。ほら、あまり気付かれていないようですが、大人でも意識してよく観察していると、電車の中で自分があくびをすると前に座っていた人があくびをして「あくびがうつった」なんていうことがあるんですけど、あんな感じかもしれません。テレビでも一心同体になって二人がかりでもっておしゃべりする双子のタレントさんを見かけたりすることがあって、とても不思議ですが、あれは情動の伝染と関係あるのかもしれないという気がしてきます。
もうひとつ、赤ちゃんの不思議な現象をご紹介します。1974年にコンドンとサンダーという人たちが、生後12時間の乳児に“英語”“中国語”“母音の連続音”“規則的な打鍵音”を聞かせてみるとそれぞれどうなるのか、実験してみたそうです。すると、“英語”“中国語”で乳児は言葉のリズムにタイミングを合わせて手を動かしたそうですが、“母音の連続音”“規則的な打鍵音”ではタイミングを合わせるような反応を示さなかったそうです。すごいですよね。気持ちや意味が込められたことばとただの音とでは、違う反応を赤ちゃんの身体はしてしまうのですね。なんでも、大人でも、通じ合っている二人が会話をしているときには、よく観察すると、無意識に身体の動きが同調し合い、あたかもダンスをしているような動きになるとも言われているようです。
このように赤ちゃんは生まれつき、周りの人の身体の動きや情動や言葉のリズムに「共鳴」してしまう性質を持っています。そしてしだいに「共鳴」は人の行動の表面には見えにくくなって、意図的な「模倣」や「共感」とも言うべきものに置き換わっていくわけですが、それでも大人でも「共鳴」みたいなものはふかーいところには残っていて、それがときどき表面に顔を出すことがあるようにも思われます。
“自閉”といわれる子どもたち・青年たち・大人たちには、「情動が乏しい」などというイメージがありますが、実際にお付き合いしてみると、とても「共鳴」しやすいと感じられることがあります。だから、「うたう」ということがまったくできないわけではなくて、生きていくうえで「うたう」楽しみを少しずつでもまわりの人と一緒に育てていく可能性を捨て去らない道があるのではないか?という気がします。
さて、このように、赤ちゃんは生まれたての頃から周囲と情動を通じ合わせ、言葉を使わなくても「うたう」ことで、コミュニケーションをしていくわけです。
そして、言葉を使わない赤ちゃんからの自己アピールといえば、「泣く」ことが思い当たりますよね。「産声」とは生まれたての赤ちゃんが初めての呼吸とともに発する初めての音声ですよね。そしてその後も、呼吸とともに赤ちゃんは繰り返し繰り返し泣き声を上げます。そう言えば、あまりに当たり前すぎるのですっかり忘れていますが、おしゃべりをするために呼吸は絶対必要なものです。その呼吸機能を高めていくために泣くことはとても良い練習になるそうです。かといって、「いっぱい練習しなくちゃ」とばかりに無理矢理たくさん泣かせるのも、赤ちゃんはしんどくて大変で、違う問題を起こしてしまうこともあるので、やめてあげてくださいね。そうではなくて、赤ちゃんは“オムツがぬれた”“おなかがすいた”などと不快なことがあると泣いて表現しては、ママやパパに共感してもらって、不快なものを取り除いてもらいながら、いっぱい甘えて、安心感や自信を蓄えていっているので、泣いて甘えることを大事にしてあげればいいのです。赤ちゃんが(というより、ひいては子どもも大人も)“泣きたくなる気持ち”を表現することは必要なことだと認めてあげるといいのですね。
2~3ヶ月頃になると、それまで全部同じだったような泣き方にもいろんな表情が出てきて、だんだん「赤ちゃんの泣き声を聞いていると、何をお願いされているのか分かる」と言われるお母さんもおられるくらいになります。だんだん言葉によるやりとりに近づいてきていますよね。
しかしそうは言っても、毎日毎日あまりに赤ちゃんに泣かれると、ママやパパは世話が大変すぎて、とてもしんどいことになりますよね。特にどうやっても泣き止まなかったり、何もこれと言って泣かれる理由が思い当たらなくてどうしていいか分からない場合は、ご両親にとんでもない心理的な負担がのしかかってくることもあるかと思います。詳しい対処法は、テーマから逸れてくるので申し訳ないですがここでは割愛させていただきますが、これは、実は先程から述べていることと関係があって、赤ちゃん(というか、子どもみんな)は、表面では取り繕って隠しているようなまわりの人のちょっとした心の動きをなんとなく感じ取ってしまう情動の敏感さを持ち合わせているためであったり、赤ちゃんが本当に伝えたいことがどうしても伝わらずにいたり、伝えることを遠慮してガマンしていたり、要するに一番伝えたいことの核心を避けて泣き続けているからスッキリしない、というようなことなど、赤ちゃんそれぞれにそれぞれの理由が考えられるようです。うまくいかないときは、お近くの「抱っこ法」の援助者を見つけて、相談してみるといいかもしれません。
さて、通常、生まれてしばらくは赤ちゃんが声を出す時といえば“泣く時”、ということになるものなので、実は泣くことは発声の練習にもなっているわけですが、2ヶ月頃になると泣くときだけではなく、快適で機嫌のいい時に泣き声ではない声を発するようにもなってきます。これを「プレジャーサイン」と言うそうですが、ママの話しかけにプレジャーサインで答えてくれるということも起きるようになってきます。そしてしだいにこの発声は「喃語」となり、意味はないけれど赤ちゃんは声を出すことを試しながら話し言葉に繋がるいろんな音の出し方を自分で身に付けていきます。
もとより、生まれてしばらくの赤ちゃんは泣いてばかりでなく、(声は出さないけれど)微笑も見せます。生まれてしばらくの赤ちゃんは“何に対して”ということもなく、まどろんでいる時に微笑を見せます。でも、しだいに周りの大人たちは何で微笑しているのか理由を推測するようになりはじめ、勝手に「楽しいんだね」「ご機嫌なんだね」などと解釈して、声をかけてあげたりしはじめます。実は、こうした“勝手に”ではあっても赤ちゃんの気持ちを解釈して働きかけていくことが大事で、さらに1ヵ月半頃には、赤ちゃんは人の顔を見たときによく微笑するようになり、微笑のリズムに合わせて大人があいづちをうったり、声をかけたりするとよりいっそう微笑するようになります。3ヶ月頃には声を発して笑うようになります。さらには赤ちゃんから、まわりの人の気を引こうとして声を出してくるようにもなり始めます。
そして、赤ちゃんは身体の動きでも表出をしてきます。赤ちゃんは、生まれたばかりの頃に、急に腕を激しく2・3回振ってはしばらく止まって、またしばらくしたら急に腕を振って・・・というサイクルを繰り返します。“赤ちゃんは身体をパタパタと動かすことで、無意識に自分で自分の心身を整えている”なんていう見方もできるそうです。だから、それはとても大事な活動のようなのですが、もうひとつ、その赤ちゃんの動きを見ている大人としては、赤ちゃんの動きが止まった合間に、ニコッとうなづいたり、声をかけてあげたり、顔を近づけてあげたりなど、タイミングを合わせてやりとりになるように、なんとなく働きかけてあげたくなるもので、これもまた大事であったりします。このやりとりをするうちに、赤ちゃんはしだいに、自分がやったことが周囲にどんな変化を惹き起こすのか見定めるように間を取るようになってきます。つまりだんだん、大人が赤ちゃんに合わせてやりとりをするだけでなく、赤ちゃんがやりとりのタイミングを見計らうようになってくるのですね。
人が会話をするときというのは、お互いに交互に話を聞いて、タイミングを見計らって話す、また聞いて、話す…、というサイクルを繰り返していますよね。実は、この赤ちゃんの身体を使ったやりとりは、のちのち、“遊び”にありがちな相手と自分が順番にやっていくという「番の交代」というものに発展し、さらに将来的には、交互に話すことで会話を成立させるところにまで繋がっていくといわれています。
さて、こうしていろいろ見てみると、ひとつ大事なことが浮かび上がってきます。それは「泣きにしても、プレジャーサインにしても、喃語にしても、微笑にしても、身体の動きにしても、もともとは赤ちゃん本人にとっては意味のない生理的な反応であったり、なんとなくやっているような発声や身体の動きであったりしても、それに対して、一番最初は周りの大人がなんとなく適当にでも意味づけをしてあげて、やりとりをしてあげることが必要だ」ということです。
大人がことばにして意味づけしてあげるから、赤ちゃんの中にも意味が生じてくるし、大人がタイミングを見計らってやりとりを成立させてあげるから、赤ちゃんもしだいに自分からやりとりをし始めるようになってくるように思われます。むしろ、赤ちゃんは全部意味が分かっていておしゃべりしているんだ、と信じて付き合っていくくらいでいいように思います。こういうところはあまり「赤ちゃんが意味分かってるわけないじゃないか」と変に合理的・科学的な構えをせず、コミュニケーションを楽しんでいった方が「うたう」ことができるのではないかと思います。科学云々ではなく、昔から大人は赤ちゃんとあたかも全部意味が通じ合っているかのように、抱っこやおんぶをしながら話しかけて育ててきていたようです。現代でも、赤ちゃんはお話が分かってるのかな?と感じることが、実際にお付き合いしているとあるかもしれません。ベイツという学者さんは、こんな赤ちゃんとのお付き合いをする時期を「聞き手効果段階」と呼んだようです。
こうした「うたう」やりとりの底にはずっと“視線”“まなざし”が大切な役割を果たしています。生まれたばかりの赤ちゃんの視力は0.04くらいで、約20~40cmの距離で人の顔のほとんどの特徴を見ることができるそうです。おっぱいをあげているときは、赤ちゃんにしてみればママと肌が触れ合う一番安心できる気持ちの良い時間になるわけですが、そんな時、ママが少し調整してあげると、赤ちゃんは目の前に黒く光る2つの円を見続けるようになり、ママと赤ちゃんの目が接触し続けることになります。さらに2ヶ月頃には、おっぱいを飲みながら赤ちゃんの方からも視線を合わせてくるようになり、3ヶ月頃には首が据わってくるので赤ちゃんは自分の見たいところへ視線を持って行ったり、逆に目をそむけたりもできるようになり、4ヶ月頃には巧みに自分の視線をコントロールできるようになってくると言われています。(ああ、ずっと「○ヶ月」という書き方していますが、これもやはりあくまで目安ですから、その通りじゃなくていいんですよ。)
時々、ママが抱っこすると視線をそらしたり、泣いて抱っこを嫌がるかのように動く赤ちゃんがいます。そんなことになると、ママは「赤ちゃんに嫌われてる」「抱っこが嫌いなんだ」とどうしても思ってしまうかもしれません。あるいは、「うちの子はおかしい」と思ってしまうかもしれません。でも、この場合、とても意外なことに、赤ちゃんは「ママの抱っこが嫌い」なのではなくて、ママが大好きな故についついやってしまっていることだったり、あるいは「おかしい子」だからやっているのではなくて、ママ思いの優しい子であるが故にやってしまっていることだったりするのです。
先程「おっぱいをあげているときは、赤ちゃんにしてみればお母さんと肌が触れ合う一番安心できる気持ちの良い時間になる」と述べましたが、そんな大好きなママにいっぱい甘えることができて幸せをいっぱい味わうことのできる時間が、もし、赤ちゃんにしてみれば、ちょっとした心配事があって、それを表現するのをなんとなくこらえている真っ最中にやってきたりしたら、どうなってしまうでしょうか?抱っこされるとともに一気にすっかり安心してしまう、と想像することもできますが、やはりどうしても安心してしまうと、それまでなんとなく緊張を保ってガマンをしていた気持ちを(ガマンをしている赤ちゃんや子どもは身体のどこかに力を入れることでこらえているのですけれど)、赤ちゃんはついついうっかり溢れ出させてしまうようなのです。緊張を溶けさせてしまうような力をママの抱っこは持っているのですね。反面、“ここで自分が気持ちを溢れさせて泣いてしまうとママの元気がますますなくなってしまう”、などと、そんなママの情動の変化をなんとなく感じ取ることなら赤ちゃんは大得意ですから、ママの気持ちを察して何とか泣かないようにしたほうがいいようだ…と感じると、それなら単純にママから離れて泣くのをガマンするしかない…とあたかも抱っこを嫌がっているような行動をなんとなくはじめることがあるようなのです。
だから、どんな子どもでも例外はない本来の“ママの抱っこ好き”の姿を取り戻すには、平気で心配な気持ちを表現できるようになれればいいのですが、その前に、子どもがガマンをかけなくてはいけないと感じているその気持ちに共感してあげることが必要な場合もあるかもしれません。ご両親だけではどうしていいのか、難しくなってしまったときは、お近くの抱っこ法の援助者に手伝ってもらいながら、そのあたりの複雑に絡み合ったいろんな気持ちをひも解いていくと良いかもしれません。
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(6)「とる」の軸
「うたう」では、情動面や気持ちを通い合わせる面での発達について述べましたが、今度の「とる」では、赤ちゃんが“もの”に係わっていく面での発達について追いかけてみます。
とは言っても、ものに係わる前に、赤ちゃんはまず自分の身体を発見しないといけません。ちょっと変なことを書いていますが、「うたう」の話で触れたように、生まれたての赤ちゃんには「自分」と「自分以外」の境界線ができていないので、すなわち自分の身体の存在にも気付いていないのではないかと考えられています。
生まれたての赤ちゃんの手のひらを大人が指で押さえるとギューっと握りしめてきますが、これは「把握反射」と言われ、これまた「うたう」の話に引き続き、またしても意図的な動作ではなくて、ついつい反射的にやっている動きであると言われています。(発達するにつれ見られなくなります。)
しかし、1ヶ月頃からは腕を動かしてみたり、指を吸ってみたり、赤ちゃんは、自分の身体で繰り返し同じ動きをしてみながらその感覚を楽しむようになってきます。まだ最初は、自分の手が自分の意志で動くものだということに気付いていないのですが、1ヵ月半頃になると「いつも自分の視野の中に出たり入ったりしているこれは、自分の身体の一部なんだ」と気付いて(赤ちゃんはそんなふうにまだ言葉を使って考えていないでしょうけれど、非言語的にそう気付くわけです)、自分の手をじっと眺め、そして、手をコントロールし始めます。その“目で手を発見する”ことから自分の身体のイメージが赤ちゃんの頭の中に築き上げられ始めるようです。そして身体のイメージは「自分」と「自分以外」の間に境界線を引くことにもつながり、さらに境界線で区切られた自分は、それまで全部ひとつの混沌としたものであった周囲の環境に触れながら、どんどん世界に境界線を引いていき、「こんな“もの”があるんだ」ということを次々と認識していくようであります。
4~8・9ヶ月のあいだ頃、今度は赤ちゃんは自分の身体ではなくて、“もの”を用いて繰り返し同じことをして楽しむようになってきます。最初は偶然にですが“ひもを引いたらガラガラが鳴った”という面白い体験をしたら、もう一回その面白いことを起こすために繰り返しひもを引いてガラガラを鳴らそうとするようになります。こうなった場合、最初は偶然であったのだけれど、しだいに赤ちゃんは“ガラガラを鳴らす”という「目的」のために“ひもを引く”という「手段」を用いるようになり、そんな体験を繰り返すうちに、だんだん目的を達成するために手段を使うということや、「原因」があって「結果」があるということが(最初は非言語的に)なんとなく分かってきます。
例えば、“目に見えていないものは存在しない”かのように振舞っていた赤ちゃんが、“大人が手でおもちゃを隠してもおもちゃはそこにある”ということに気付きだすと、“大人の手を払いのける”という手段を使って、“欲しいおもちゃを手に取る”という目的を果たそうとするようになります。それがのちのち、おもちゃ屋さんで欲しいおもちゃを手に入れるために、とことんパパやママにおねだりすることにつながっていくかどうかは知りませんが(笑)、そんなふうにだんだんと、目的を持った意図的な行動が増えてくるようになります。新しいおもちゃの遊び方も、何をするおもちゃなのか、どうすればその目的が達成されるのか、いろいろいじって試行錯誤している間に自分で見つけ出して楽しむようになります。挙句の果てには、私などにはいまだに何をする遊びなのかその目的も手段もよく理解できていない「ムシキング」に小さい子どもが夢中になれるという現象も起こっているようです。
また、「原因」と「結果」があると分かってくることは、言葉の面では、“相手に対して意図を持って話すこと”につながっていく…とも言われています。
「とる」行動は、常に目に見えています。特に、手段と目的がはっきりしてくる段階に至れば、日常生活や遊びや学習などの場面で、“子どもがやりたい目的”や“大人が子どもにお願いした目的”が達成されたか?…といった「できた/できない」がはっきりしてきて、見る方にも何をやっているのか、とても分かりやすくなってきます。なので、大人の子どもに対する注目は「とる」行動に集まりがちになりますよね。一方、「うたう」「みる」は直接、目で確かめるのではなく、感じ取ったり、推察することで、様子が分かってくるようなものであるので、うっかりすると見過ごしてしまうことがあるかもしれません。
ですから、「とる」は子どもの発達を見守る上で重要なことではあるけれど、「とる」ことに偏りすぎず、ついうっかり「うたう」「みる」を忘れてしまわないように気を付けた方がいいかもしれません。「うたう」ことを十分味わえていないため、不安が強く、まわりの環境に手を伸ばしていくことができなかったり、失敗を恐れて新しいおもちゃにチャレンジできなくなったりすることもあるので、結局、「うたう」に帰結されることであるかもしれません。
反面、「とる」ことは、一見、言葉と関係ないように思われることもあって、例えば、私の身の回りの出来事として、発達を促すために必要だと判断して「とる」課題をメインに子どもとの活動を続けていると、ご両親が「言葉と関係ないことばかりしているが、なぜ?」といった疑問を投げかけてくださることが時々あります。まあ、そう思われるのは無理もなくて、私の方が前もってちゃんと説明しておけばよかったことなので、すみません。
言葉の意味というのは、実は身体を通してしか生じ得ないもので、例えば「りんご」というのは、絵カードなどで見たりんごの形や色だけではなく、その味や香り、手で持ったときの重みや手触りや温感、それを手に入れたスーパーでの出来事、かつて旅行先で見たりんご畑の風景や雰囲気、数日前にりんごを食べたときの家族の様子…などという自分の身体を通した体験が重なってきて、混沌の中から「りんご」が切り取られ、どんどんその意味が深みを増していくものであるわけです。つまり、子どもにとっての“もの”の意味を深めていくためには、“もの”や自分の身体について、その感覚を確かめ、操作の仕方を覚え、体験を増やして、「とる」活動を積み重ねていくことが不可欠であるわけです。
ゆえに、一人一人にとって「りんご」の意味は重なっている部分も多いけれど、一人一人で各自違う意味を持っている部分もある、ということになりますよね。特に、感覚的に鋭敏すぎたり、逆に感じにくかったりする子どもの場合、大きく違う意味を「りんご」に対して持っている可能性もあるので(例えば「なにがおいしいんだか分からない」とか、「気持ち悪くて触れない」とか)、まず、身体を使った活動を通して、そのような子どもの感覚を整えていくことが重要になる場合もあるかもしれません。あるいは、体験を増やしていくためにはまず手先を上手に使えるようになる必要があるかもしません。
加えて前述の、将来、わけもなくでたらめに発話するのではなく、意図を持って相手と話をすることに発展していく側面もあるので、言葉を育てるために「とる」活動も必要になってくるわけなのです。
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(7)「みる」の軸
「うたう」では、目は、赤ちゃんと「共鳴」する時や気持ちを通わせていく時に大きな役割を果たすものでした。
そして、また少し発達が進んでくると、今度は「とる」で、目は、自分の手や身体や“もの”を操るときに協力してくれる補助道具のようになっていて、赤ちゃんは目で見て、興味を持ったものはいつも手にとったりなめてみたりして、常に「みること」は「とること」とセットになっているわけなのでした。
しかし、9ヶ月頃になると今度はついに「みる」ことが「とる」ことから分離し始めます。つまり、目にした“もの”を距離をおいて眺めることができるようになるのです。こんな他愛のないことが(でも、赤ちゃんにしてみればとても大きなステップなのですが)、ことばの発達にとって非常に大きな意味を持ってくるのです。
少しややこしい話なのですが、「とる」でみたような「生まれたばかりの頃の全部ひとつの混沌としたものであった“周囲の環境”に触れながら、そこに境界線を引いていって、認識していった“もの”」そのものに名前をつければことばになるのではなくて、よくよく考えれば、「境界線を引く」作業は実際の周囲の環境に線を引くわけではなくて、頭の中の世界で引いているわけなのですよね。つまり、普通に考えると勘違いしてしまうのですが、我々は、“もの”そのものに名前をつけているのではなくて、“もののイメージ”に名前をつけているのですね。
だから、私たちは、例えば「ねこ」の実物が目の前になくても、「ねこ」という音声を聞いて頭の中で「ねこ」のイメージを思い浮かべることができるし、「化け猫がろうそくの蝋をなめる」などという、実際にはありえない、せいぜい本のイラストで見たことがあるくらいの状況をイメージして「怖ろしい」などと思ったりすることができるみたいです。
さらには「トム」という猫と「ジェリー」というねずみが年がら年中追いかけっこをしてケンカを繰り返しているけれど、2人は仲良しだ、といった実際にはありえないような状況を、あの漫画の作者は見たこともないのにイメージの世界で創り上げることができたということになるのでしょうか。
赤ちゃんだったら、「トム」も「ジェリー」も混沌とした世界に呑み込まれながら漠然となんとなく感じられているようなことで、「追いかけっこ」も「ケンカ」も「仲良し」も全部漠然としている、という感じになるのでしょうか。でも、赤ちゃん時代の布団などにトムとジェリーのイラストが書いてあったりすると、ああいう赤ちゃんグッズのイラストってすごく感慨深いものがあって、大人になって自分の赤ちゃん時代のものを見るとしみじみとふかーい涙を誘うようななにかを感じたりするんですよね。ただ単にトムとジェリーじゃ泣けないと思うんですけど。あれはむしろ笑うものだし。漠然と感じているというのもすごいものです。
まあ、トムとジェリーの場合、大人でも、ある場面を採り上げて「これはケンカをしているのか?仲がいいのか?何なのか?」と考えてみても、はっきり区別できないようなところはあると思うのですが。そういえば、小さいときに見たアニメを大人になって改めて見ると、すごくはっきりと物事が分離して感じられて「こんなに込み入った話だったのか」と驚く経験をしたことはないでしょうか?
この「言葉というのは実物の世界のものではなくて、イメージの世界に立ち現れてくるものだ」ということは、言葉というのは名詞だけでなく、動詞や形容詞のようなものもあって、1歳台でも物の名前と一緒に動詞や形容詞の獲得単語数が増えていく事実も考え合わせてみると、つじつまがあってくると思います。つまり、動詞や形容詞のような、明らかに見ることも触ることもできない“もの”ではなくて、“様子”のような“イメージ”に名前をつけているわけなのですね。
こういうイメージのような“もの”を「表象」などと言ったりして、「物そのものではなくて表象に名前をつけている」などと言ったりもします。「表象」を使うことは、人間と動物の大きな違いだとか言われていたりもします。
難しい話になりましたが、ホントにもう、結構、手の込んだことを子どもはやっちゃっているんですね。そして、このイメージをつくるためには“一歩引く”ことができなくてはならず、さらにそのために、目についた“もの”をすぐ手に「とる」のではなく、時には離れて眺めていることができるようになる必要があるというのです。眺めていることで、頭の中にその“もの”のイメージがだんだんできてくるのです。いずれは、その頭の中のイメージを操作して、ああでもないこうでもない、と、実際に物を動かしたりせずに、頭の中で思考することができるようになってくるわけなのです。
例えば、豪華なディナーをいただくときに、「なんでもいいから早く食べたい」とばかりに、即物的に間髪いれず、次々に口の中に食塊を放り込んでいったら、おなかいっぱいにはなるものの、いったい自分が何を食べたか、そして美味しかったんだか不味かったんだか、せっかくの贅沢を味わう楽しみも、よく分からない状態になるでしょう。ではなくて、一皿ずつ出てくる料理を、目でしばらく堪能し、食べるときも、夢中にならずに一歩引いて、じっくり味を堪能しながら食べていったほうが、何を食べてどうだったか、という印象は残りやすいですよね。
でもまあ、何も考えずにがむしゃらに食べて満腹感を味わうというのは、生命の維持に直結した大きな大きな幸せかもしれませんよね。(ああ、そうか、満腹感を意識して、味わっているところまでやると、がむしゃらに食べている状態から一歩引いて「みる」をしていることになっちゃうわけですね、じゃあ、ここは「何も考えずにがむしゃらに食べるというのは」に訂正ですかね?あっ、それに、「幸せ」というのも一歩引いて「みる」から意識するし、存在する“言葉”であるのでしょうかね?)しかし、人間というのは、「美味い」とか「不味い」とか「豪華だ」とか「綺麗だ」とか、とりたてて生命の維持と関係ないことを大事にしてしまう特徴を持った生物だったりするわけですね…。でもとりあえずはそういうところで人生を豊かにして楽しんでいたりして、だからこそ生きる意欲も湧いてきたり、生きる意義を見出せたりするようでもあるので、厭世的になって粗末に扱うわけにはいかないところだったりするような気がします。
ですから衝動的にならずに落ち着いて、対象から一歩引いていられることが、じっくり今自分が見たりやったりしていることを味わうことにつながり、言葉を育てることに加えて、人生を豊かにすることにもつながることであったりもするので、そういう意味でも「みる」を育てていくことは大切であるような気がします。少々なら子どもの場合、動き回って当たり前ですが、あまりに衝動的に困ってしまうぐらい動き回ってしまう子どもの場合は、少しでも落ち着いていられる時間を作れるように工夫してあげたり、あるいは、ママとの「うたう」を深めていったりすることで、落ち着きを取り戻せるように手伝ってあげられるかもしれません。
しかし、そんなどうしても落ち着いていられない自分を一歩引いて「みて」振り返り、自分を責めてしまっている子どもに出会うこともよくあって、そんなときは、まわりの大人が一緒になってその子の気持ちをゆっくり「みて」あげて、責めるばかりでなくて、さらにはその子のいいところも見つけてあげて、それを大人が言葉にしてあげて、伝えてあげることによって、その子の頭の中にある自分自身に対してのイメージも変化していき、人生を豊かにしていくことができるかもしれませんね。そうなると「うたう」も入ってくるわけなのですけれどね。
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(8)「うたう」「とる」「みる」の3つの軸が育っていくことが、言葉につながっていく
この『行動の三角形』の「うたう」「とる」「みる」を育てていくことが、ことばにつながっていくわけです。いきなり英語や漢字の勉強のように、単語をたくさん覚えれば、それだけでことばが出るわけではないことがお分かりいただけるでしょうか。
『行動の三角形』の話がすっかり長くなってしまいましたが、次にいよいよ、もうひとつの三角形、『三項関係』の話をしていきます。「うたう」「とる」「みる」を育て、『三項関係』が成立するようになれば、赤ちゃんはもう、ことばを話し出す一歩手前まで来ています。
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(9)三項関係
赤ちゃんが、ママやパパに抱っこされてかまってもらったり、おうちにやって来た近所のおばさんと顔を合わせてニコニコしたりなど、“人とやりとりしている”ところを(とっても簡単なものですみませんが)図にしてみます。(図A)
ハイ、どうということはないのですが、図Aでは、[自分]と[他者]という2つの項目が出てくることを押さえておいてくださいね。
こんなふうに2つの項目の間で関係を取り結んでいるので、これは『二項関係』と呼ばれています。
実は、赤ちゃんを取り巻く二項関係はもう一種類あって、それが図Bです。
こんなふうに、人が相手ではなくて、赤ちゃんがガラガラで遊んだり、積み木を口にくわえて確かめてみたりなど、“物と係わっている”場合もあるわけですよね。
『二項関係』の見方からすると、赤ちゃんが周りの環境と係わる場合には、この(図A)(図B)の2通りが考えられるわけです。
ちなみに、これまでの『行動の三角形』で言えば、(図A)は「うたう」関係、(図B)は「とる」関係ということにもなっているんですね。
それが6・7ヶ月~9ヶ月過ぎぐらいの頃になると、なんと、段々とこの図Aと図Bの2つの二項関係を合体させたような、新しい関係を取り結び始めてくるのです。図Cのようになります。
「うたう」「とる」「みる」の『行動の三角形』に引き続き、また三角形ですが、ちょっとワケあって、三角形で説明するのが好きな学者さんが多いんですよ。20世紀ごろ流行っていたみたいです。
さて、この図Cのような関係の取り結び方を『三項関係』と言います。要するに、[自分]と[他者]が、[物]を仲介してやりとりする、ということになるわけです。こういうのって、生まれたときからすぐできるようになっているわけではないのですね!!
三項関係の始まりとして、「ジョイント・アテンション(注意の共有)」というものがあります。これは、視線(「みる」)を使った三項関係です。
まだ二項関係しか成立していないとき、赤ちゃんは、“ママやパパなど周りの人とやりとりするために直接視線を合わせる([自分]―[他者])”か、“物を操るために目を補助的に使う([自分]―[物])”か、その場その場でそのどちらか一方のためにのみ視線を使います。
しかし、6・7ヶ月頃以降になると、赤ちゃんとママが抱っこで視線を合わせて気持ちを通わせている最中に、ママがふと横を向いてそばにあったおもちゃなどに視線を移すと、赤ちゃんもママの視線を追うようにして同じおもちゃを見る、というようなことが起こってきます。
つまり、ひとつの物や出来事を赤ちゃんと周りの人がお互い「あー、あんなものがあるねー」といった感じで、一緒に見る…といったことがだんだん起きるようになってくるわけです。これが「ジョイント・アテンション(注意の共有)」です。こうして「[自分]と[他者]が、[物]を仲介してやりとりする」ことが少しずつ芽生えてくるわけです。
初めはおぼろげながらやっていたジョイントアテンションも、1歳前くらいになるとはっきりしたものになってきます。やはり、“「みる」ことが「とる」ことから分離し始めるのが9ヶ月頃だ”と言われていることと関係しているのでしょうか。
「一緒に見る」ことが成立するためには「うたう」ことがしっかり定着している必要があるのではないか、という気がします。三項関係は教え込めばいきなりできあがるものではないようなので、まず、子どもが二項関係で周囲と関わる経験を十分に積み重ねておくことが大切なようでもあります。
また、三項関係ができあがってからも、二項関係は大切なものであると意識しておいた方がいいかもしれません。物を介さない[自分]―[他者]のやりとりは、三項関係が成立した子どもや大人にとっても、人とのつながりを体感して安心感や自信を育んでいくためにとても必要で大切なものであるように思われます。また、ひとりで物の操作の仕方をじっくり探求していくことは、知的な能力を開花させていくために大切で、これは大人になってもあったほうがよさそうですよね。
それから、ジョイント・アテンションでは、“いつのまにか[自分]と[他者]が、「テーマ」をつくって気持ちを通わせることになっている”…という見方もでき、ここがことばの成立につながっていくポイントであるので、ちょっと注目です。通常、我々がことばでやりとりするときは、いつもなにかひとつの「テーマ」があるもので、同じ「テーマ」で話をしているから、長い会話が続くわけなのですが、ジョイント・アテンションしている赤ちゃんには、それが芽生え始めてきているわけなのですね。
さらに、三項関係ができあがることよって起きてくるものとして、「手渡し」と「提示」というものがあります。
「手渡し」は、“赤ちゃんが手に持った物を相手に手渡す行為”で、例えば、おもちゃの“スイッチをONにして”という感じで大人に手渡してきたり、あるいは、ママが「ちょうだい」とお願いしたら、持っていたおもちゃをママに手渡してくれたり、といったことがあります。
「提示」は、“赤ちゃんが相手に向かって手に持っている物を見せる行為”で、例えば、音のするおもちゃを“これおもしろいよ”と、ママに差し出して見せてくれる、といったことがあります。
どちらも、物を介して赤ちゃんとまわりの人がやりとりすることになっているので、三項関係ができあがって行われる行為だということになるわけです。
「手渡し」も「提示」も、言葉を使っているわけではないのですが、物を介しながら「これやって!」「はい、どうぞ!」「これ見て!」などという意味を含んだ行為になっているので(これは「言葉」ではないですが、私が区別して「ことば」と表記しているものには当てはまります)、のちのち、子どもが身振りで相手に思っていることを伝えることに発展し、さらには言葉にもつながっていくものだと思われます。
最後にもうひとつ、忘れてはいけないのが「指さし」です。「指さし」は、三項関係が成立している目印として、あちこちで一番よく紹介されています。
7・8ヶ月くらいまでの赤ちゃんは、大人が指さしをすると指そのものをそのまま見てしまいます。しかし、9ヶ月頃になると、指さしている物を見るようになります。指さしを理解するわけですね。
これは、赤ちゃんが言葉に近づく大きな進歩です。
というのは、例えば、「動物園でママがクマさんを指さしたら、子どもも見た」というような例で説明すると、もともと“指”というのは“クマ”とは何の関係もなくて、これが例えばサル山を見ているときだったら“サル”を意味するし、ゾウさんのところでは“ゾウ”の意味になってしまうわけです。ところが、7・8ヶ月頃までの赤ちゃんは、そんな指がころころ違うものを意味するようになるなんていう都合のいい“決め事”なんか眼中にない、目の前にある現物を「とる」世界にまだ生きていますから、指を差し出されると目の前の指にしか注目がいきません。とても素直な反応です。
しかし、赤ちゃん自身もママにおもちゃを“とって”と、手をおもちゃの方に差し出すといった三項関係のやりとりをするうち、だんだんそれが「手さし」と言われる手で物を指し示す状態になり、おもちゃそのものと手が離れた状態で、“その時とろうとしているおもちゃを手が意味している”とママが勝手に解釈しているというような状況を赤ちゃんはたびたび体験していくことになります。だんだん「とる」から、実際には取らない「みる」になってきているわけですね。そして、手全体で指していたのがなぜだか人差し指だけが残って(大人のまねをするのでしょうか?)、指さしになっていく、などと言われています。実は、未だに指さしには謎がいろいろあって、よく分かっていないことも多いみたいなんですけれどね。
この指さしの“指が実物から離れて、何の関係もない指がその時その時にさしているものを意味する”…という特徴は、言葉とも共通していて、言葉でも、実物の“クマ”と、それを指し示す「クマ」という音声や文字の間には、もともと(本当に大元までいくと)何の関係もなかったりするわけです。だって、“クマ”は英語で「bear」などと、まったく違う音声や文字で指し示されているではありませんか。
人間はある程度成長すると、このような全然関係ない指や音声や文字などの言ってみれば“記号”に、意味を結びつけるという他の動物にはできない能力を持つようになります。難しい言い方でこれを「象徴機能」などと言いますが、もう少し大きくなって1歳過ぎると、子どもはもともとはまったく関係ないはずのブロックを自動車に見立てて遊ぶといった“見立て遊び”などということを始めるようになります。ブロックが自動車の「象徴」になるわけです。
このような「象徴」を使いこなせるようになることが言葉を使えるようになるためには重要であると考えられています。ですから、まだ「象徴」などといういわば架空かもしれない世界に入ってきていない子どもに物の名前の“音声”を言って聞かせてみても、音声と物の意味は結びついてこないわけです。(ただし、「うたう」によって、漠然と分かるということは、私の経験からしても、間違いなくあるとは思うのですけれどね。)ですから、音声だけではなくて「うたう」「とる」「みる」のいろんな側面から子どもと関わっていくことで、三項関係をつくり、象徴というものがどんなものであるのかを身につけていく必要があるのではないか…ということになるわけです。
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(10)言葉を話し始める前後から
三項関係が成立し、指さしをするようになると、もうその子どもは言葉を話し出す一歩手前まできています。
ここで気をつけたいのは、我々は、すぐ目に見えることにとらわれてしまうクセがあるということです。目に見えることは当然分かりやすいですから、それは仕方のないことなのですが…。だから、「言葉の発達のために指さしが重要な指標になる」と聞くと、我々は、「うたう」「とる」「みる」をすっとばして、とにかく子どもが指さしのポーズをできるようになることだけに夢中になってしまうかもしれません。
そうではなくて、実は、特に目に見えにくい「うたう」の側面を忘れないように気をつけることが大切であるような気がします。指さしをしながら、「うたう」ことで赤ちゃんとその相手の気持ちが一体となっていないと、『三項関係』は弱々しいものになってしまいそうです。だから、指をさすポーズをすること自体よりも、そのことによってお互いが「うたう」ことが大事なんですよね。
「うたう」ことは、生まれたときからやっていることでありますが、他の「とる」「みる」を育てていく上でも一番の基盤になることだと考えることができるように思います。というのは、「うたう」ことで養育者と気持ちを通じ合わせていくことが、子どもの安心感や自信を育てていくためにもっとも大きな役割を果たしていることであるからで、その安心感や自信の上に「とる」「みる」が育っていくとも考えられるからです。
「とる」ことは、周囲の環境への探索をしていくことで育つわけですが、ママから離れて探索を開始するにはそれなりの安心感や自信が必要です。最初のうちは、ママにくっついて、いっぱい安心感や自信を補給して、エネルギーいっぱいになったら少しママから離れて周囲を探索してきて、そしてまたママのところに戻って…、ということを繰り返し、そのうちだんだんとママから離れている時間が長くなっていく…というのが一般的な子どもの“周囲の環境を探索していくやり方”のようです。
あるいは探索中に何か恐いことやびっくりするようなことがあれば、子どもは急いでママのところへ戻って、泣いて訴えることがあるかもしれません。そんなときは「平気、平気」「泣かないの!」などと子どもの「泣きたくなるくらい恐かった」という気持ちを、そのつもりはなくてもついついうっかり否定して却下してしまうより、ママが「わー、こわかったね」「びっくりしたね」と子どもの気持ちを言葉にしてあげながら共感してあげたほうが、深く「うたう」ことができるし、子どもはママのおかげで、おぼろげに感じていた自分の気持ちに名前をつける体験をすることにもなるでしょう。ひとしきり泣いてママに聞いてもらってたっぷり甘えて気が済めば、また安心感をとりもどして子どもは探索に出かけていくでしょう。いいことづくめではないですか!
ここで、“泣き”や“笑い”や“身振り”や“言葉”等を使って(これらを私は一言で“ことば”と言ってしまいますが)自分の気持ちを表現することが苦手な子どもの場合だと、ママと離れていても平気な顔をして、ずっと探索から帰ってこないでひとりで過ごしている…というようなことがあります。平気な顔をしていても、表現ができないだけで、実は不安でいっぱいで、とても大変な思いをしていることもあるようです。
あるいは、“ことば”で自分の気持ちを表現することが苦手な子どもの場合、泣き出した後にそろそろ自分の気持ちを落ち着かせていこう…といった自分自身の気持ちに対処する経験も少なく、慣れないままなので、いざ泣き出してしまったら、いくらママが慰めても泣き止まない、という状態になってしまうこともあるようです。
ですから、どちらも普段から自分の気持ちをガマンすることなく素直に表現できるように促してあげて、子どもが自分の気持ちと向き合う練習を大人が手伝っていけばいいのですが、時として抱っこ法の援助者のような、子どもの気持ちに寄り添う支援に慣れた人の手助けを借りないと、なかなか思うようにいかないこともあるかもしれません。
安心感や自信が持てないために、新しいことを探索しないで、自分が今できるいつもと同じ「とる」ことをいつまでも続けてやって、なかなか次の挑戦に踏み込めないでいる子どももいます。この場合、そのいつもやっているその「とる」ことが、周囲の人と「うたう」ことを避ける手段になってしまっていることもあるので、注意が必要です。ひとつのことに固執して、自分の感情にフタをしてしまうわけですね。
発話がほとんどなかった子どもの言葉が増えていくとき、子どもが泣いてダダこねすることが急に増える場合もよくあります。本当によくあります。これは、子どもの言葉が増えていく前兆として捉えていいくらいかもしれません。
しかし、これをやられると、周囲の大人は困ってしまうので、やはり泣いたりダダこねしたりしないようについつい仕向けがちです。でも実は、この“泣き”や“ダダこね”についても、子どもが今まで自分の気持ちを表現しないようにしてきたガマンが急にはずれて、噴き出したような状態になっているからではないかと思われます。
だから、この場合も、言葉を増やしていくためにも、また、「うたう」ことで安心感や自信をつけさせていくためにも、無理に泣き止ませてガマンさせるのではなく、子どものヤダに共感していけばいいのではないかと思います。さらに、気持ちの上では共感してもらって泣きながらでいいから行動の上ではママやパパの言うことを聞いておにいさん・おねえさんらしい行動ができた…ということに子どもがなるよう、大人が導いてあげられれば、子どももご両親も一番満足いく結果になると思います。
例えば、ママに「公園でまだ遊びたい」とダダこねているときは、「まだ遊びたいね」と共感してあげて、子どもも十分「遊びたい」を表現すれば、“そろそろママの言うことをきかなくっちゃ”となってくるものなので、そしたら泣きながらでも、子どもはママに手を引かれて、でもちゃんと自分で歩いて(その気になってくれているということ)一緒に帰ってくれたりします。うまくいけば、このとき子どもは泣きながら、「まだ遊びたかったのにー」とたっぷりママに甘えて、ママとの一体感を味わい、安心感を育むこともできます。
実は、子どもはダダをこねて自分の言い分が通るより、自分の気持ちを分かってもらいながら、なおかつ、ママやパパの言うことを聞けた方が、あとで機嫌がよかったりします。そんな様子を見ていると、おにいさん・おねえさんらしくできることは子どもにとって本当の望みなのではないか?という気がしてきます。それによって自分がまだまだ成長していける希望が出てくるので、子どもに自信もついてくるようです。
でも、最初はそんなにうまくいかないことのほうが多かったりします。でも繰り返すうちに、ダダをこねる時間はだんだん短くなってきます。しかし、それでもあまりに延々とダダをこねられて困ってしまっているときは、ママ一人で頑張るのではなくて慣れた援助者に相談して、力を借りた方がいいこともあるかもしれません。
さて、大人が言った“物の名前”や“発声”や“動作”や“遊び方”を真似して楽しんでいる子どもは、どんどん物事を吸収し、世界が広がっていきます。一語文が出てからの語彙(単語)の増え方も、著しいものがあります。“子どもがこの先、言葉が伸びていくかどうか?”についても、真似をする子どもは比較的楽観的に考えられるようです。そういえば、子どもが“真似”をして楽しむ態度も「うたう」ことから培われているようですね。
「うたう」ことで「とる」「みる」もすべて伸びるとは私は決して言いませんが、「うたわない」から本当はもっと身に付けていけるはずの「とる」「みる」が育たないことや、身に付けているはずの「とる」「みる」が発揮できないことがある…という実感を私は持っています。あるいは、「うたわない」から実際よりも障害が重く見えてしまうことがあるようにも感じています。ですから、子どもの能力を最大限に発揮させていくためにも、「うたう」を重視していくことが発達の援助の大きなポイントではないかと思っています。
けれども、「うたう」ことは大好きになっているけれど、言葉や動作を真似するのが、知能面でなかなか難しいという場合もあります。この場合、真似する意欲を失わないように「うたう」楽しさを持続して持ち続けられるような配慮も大事ですし、どうすれば真似ができるのか、大人の側がお手本の提示の仕方を工夫する配慮も必要でしょう。言葉の場合だと、音声で提示された言葉の真似が難しい場合は、例えば先に文字を学習していくことで言葉の習得を助けることができることもあります。真似が正しくできているかよりも、間違っていても子どもの「真似したい」という意欲を認めて一緒に楽しむことが大切な段階もあると思います。
それから、“何を真似して覚えていくのか”、さらには“どんな課題を与えていくのか”を選択していく場合に、やはり援助者の見立てというものが大事になって、あまりに簡単すぎるものを与えても子どもは達成感を感じられず、満足できないし、難しすぎてあまりにできないことがずっと続くと意欲がどんどんなくなってしまいます。時には、やりたくない苦手な課題をあえて提示して、乗り越えさせることも子どものために必要でありますが、やはりどの程度の高さのハードルを用意するのかをきちんと見立てることはとても大切なことです。
しかし、子どもが失敗したときや難しくてあきらめそうになったときも、「もういやだ」「くやしい」という気持ちに共感しながら「うたう」ことで再び元気を取り戻し、挑戦できるようになるということもあり、ここでも「うたう」ことは大切になってきます。どこまでいっても「うたう」はついてきますね。
「言葉が遅いのが心配」の(2)で、「専門家はまず、言葉が遅い原因をさぐり、そこで明らかにされた原因により対応がそれぞれ異なってくる」ということを書きましたが、「うたう」に関しては、どんな遅れの原因があってもあらゆる発達の底辺にいつもあるべきもので、結局のところ「うたう」ことにより、子どもが発達していく力をよりよく引き出していくことができるのではないかと思われます。そう考えると、「治療」「訓練」「教育」などももちろんとても大切な視点ですが、それ以前に“どんな子どもに対しても「子育て」の視点というものが必要ではないのか?”という考え方が浮かび上がってくるような気がします。
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