言葉というものは、人をより良く生かすために使われることもあれば、残念なことに、人をおとしめるために使われることもあります。どうしても伝えたい本当のことを伝えるために使われることもあれば、大事な本当のことを見ないようにするために使われることもあります。
私が子どもに関わる仕事をさせていただき始めた一番最初は中学校での授業でしたが、日々、自分の言葉が空回りしてしまう場面をたくさん味わわされることになりました。ただ言葉だけで人が変わることはないようなのです。でも、何らかの条件が揃えば、言葉で人が変わるということが起こりうるということも、ないわけではないと確かめられもしました。
教育現場において、たくさんの言葉が宙に浮いていることに半ば絶望的な気分になりながら、でも、悩み続けたその果てに、希望を賭けることのできるひとつのアイデアに辿り着きました。それは、どうやら言葉に“身体”をこめると“生きた言葉”になるのではないか?…ということでありました。
以来、子どもたちと関わる上で、私の中では、身体を土台にした言葉をどのように生じさせるのかが、大きなテーマになりました。その後になって、言語臨床の世界に入ることになったのですが、本当に人間が生きていくうえでポジティブに言葉を使う大事で必然的な意味があるとしたら、それは、自分の身体感覚を言葉にこめて表現することができ、それが相手に伝わるということにおいてのみであろうと、底辺ではずっとそのことを考えてきました。
ややもすると、机上の言語課題では、正解と不正解だけが問題となり、そこには身体感覚の伴わない言葉遊びが続いていってしまいます。「メタ言語能力」などという専門用語があって、言葉を使って楽しいゲームや遊びを楽しむのは、それはそれでたくさんやりたいとも思うのですが、人間が日常的に言葉を使う真価はそこにはないでしょう。(哲学的には、真価があるかもしれませんが、それはそれでその哲学者なり学者なりが自分の身体をこめて論じた場合だけであろうと思います。)
「りんご」という言葉ひとつとっても、その「りんご」の絵と音声が一致するというだけの、その「りんご」の意味は、非常に貧弱なものであると言わざるを得ないでしょう。「りんご」の意味は、その視覚像だけでなく、その味、歯触り、舌触り、手で触った感触、噛んだときに聞こえてくる音、温度、そして、かつて自分が「りんご」を食べたとき、どんな場面でどんな出来事があって、その時自分はどんな気持ちだったか…などなどの自分の身体に残っている多様なチャンネルの感覚が統合されたものであるのです。だから、「りんご」の意味は、身体上にしか生じ得ないし、当然それは人それぞれ違うものになるのではないかと、私は考えるのです。そして、その身体上に生じているなにものかを感覚でき、それを言語化して、人に向かって表現して伝えることができるか?というところをはずして、言葉のトレーニングをしてみても、何か大事なことが足りない感じがしてくるものではないかと思うのです。
そんなわけで、身体というものが、私の言語臨床の中でとても重要な位置を占めざるを得ないところが元々ありまして、学生時代に、「感覚統合法」という流派のことを知ったときには、非常に感激しました。言葉の発達の土台に感覚面での発達があるという視点を先人がすでに作り上げて下さっていたのです。
さらに、発達上の問題により言葉でのやりとりでは全くコミュニケーションが成立しない成人の方々とのつながりをいかに拓いていくか…という仕事を授かったときに、いろいろ調べた上で「動作法」という流派のことを知りました。何冊も本を読み、専門の先生にもお会いしてご教授いただき、日々の臨床で試していくうちに、明らかに一回のセッションのはじめと終わりで私が関わった人の顔が変わっていることに驚かされました。どうやってもコミュニケーションがうまくできなかった人とも、身体を通じればダイレクトに関係性を築くことができるという経験は、私にとってまさに「コロンブスの卵」でした。
さらに「抱っこ法」という流派のことを知り、多彩な人間の感情の動きに対して身体と言葉を上手くバランスして使いこなしながら受け止め、寄り添い、成長を促していくことのできるこの方法に強い関心を抱き、継続して十数年に渡って、数々の先輩方や仲間たちからたくさんのことを学んできました。その技法の発展のための研究会や研修会に参加する中で、心理臨床の世界における身体を使う様々なワークも経験させていただき、学んできました。(日本抱っこ法協会から「公認ホルダー」の認定を得るに至りましたが、2014年より、更新の条件を全て満たしつつも自主的に辞退いたしました。抱っこ法の理論的なかなりのコアに当たるであろう「本来の自分を取り戻す」という考え方が、古くからの私の言語観とぶつかってしまう矛盾を感じたからなのですが、抱っこ法の臨床場面でどうしても認めざるを得ないほど見てきた数々の明らかに人に変化をもたらすその現象を否定することはもちろんできません。「本来の自分」という概念を使うことがもたらす問題を私はどうしても予感してしまうので、他の考え方でこの現象を説明することはできないものか?と、抱っこ法の上級援助者の研修会には参加させていただいて学びながらも独自の探求を続けています。よって、私が行うものは「抱っこ法」ではありません。)
もうひとつ、違う文脈で「ヴェルボトナル法」にも出会いました。構音の運動が、全身の動きや緊張に驚くほどに影響を受けていることに関心を持ち、学びました。
「言葉」は嘘をつくことができますが(だからこそ、嘘をつかないように意識していなければならないと思うわけですが)、「身体」は常に本当のことを伝えてきます。できるだけ毎日子どもの身体に気持ちをこめて触れるようにして、親子でお互いの身体感覚や感受性を高めていくことで、お互いの身体と気持ちの変化に気付き、そのやりとりの中でお互いが元気になるということがあります。実は、このようなしっかりとした関係性ができてくると、躾についても取り組みやすくなり、悩むことも減ってくるはずなのです。生得的な要因もあって、感情のコントロールが難しい子どもを身体を通して気持ちに寄り添いながら援助することのできる優れた方法論もあります。また、学習においても、お子さんが最大限の力を発揮しやすくなってきて、好奇心も増してくるということもよく起きてきます。人の話を聞いて理解する態度の根底に、身体を脱力して、いったん自分の自己主張したいことを置いておけるかということもあるようですから、そこにも身体に関わる方法が役に立ちます。
意味や感情は、身体の筋肉や内臓に宿るという解釈ができます。「胸が張り裂けんばかりに悲しい」「飛び跳ねたいくらいうれしい」「不安で胃がムカムカする」などなど、様々な身体に関係する慣用的な表現がありますが、感情の変化を人間は通常、身体状態の変化を感覚して気付き、言語化しているもののようです。算数が得意になるかどうかの決め手に「数量感覚」が身についているか?ということがあるようですが、こうした数のことに関しても身体感覚が大きな影響を与えているのだとも考えられます。結局のところ、「意味」は身体に宿るものだからでしょう。
発達の遅れが心配される子どもに、あるいは、困った行動が心配される子どもに、しばしば身体感覚を整えるアプローチを施すことが必要になります。身体感覚が歪んだまま、机上で学習を進めても、後々になって理解のできない意味世界があることに直面せざるを得ないことがあります。また、不安や心配事のせいで身体が緊張して、感覚が鈍くなっていたり、動きがぎこちなく日々の活動の中で十分な体験ができなくなっているようなこともあるでしょう。表現が乏しくなってしまうこともありますし、抑えている分、逆に荒っぽい爆発的な表現になってしまうこともあります。子どもの発話がはっきりせず、聞き取りにくくなることもあります。感情を抑えるために、身体で頑張って不安や心配を隠して顔では笑っている子どももいます。
その不安や心配事を安心に変えていくのに、一番優しいのは、やはり子どもの身体に触れることであり、場合によっては、それに言葉を添えていくのも良いでしょう。もしどうにもならないときは、さまざまに先人が開発してくれている身体を使った技法もあるのですから、私に限らず、そうした技法を学んできた人を見つけて、手伝ってもらうと良いですね。身体に関わっていく方法を採り入れれば、身体というものはやはりダイレクトな関わりとなる分、はまってくれば成長の進展はとても早くなるように感じられることがしばしばあります。それは自信が出てきて、実力を発揮できるようになったということであるので、決して「治る」ということではないということに留意しなくてはなりません。子どもの手や口元に援助者が手を添えて、学習を援助していく技法もありますが、こうした場面でも、子どもの感情面とのやりとりをどうしてもしなくてはならなくなることがあります。身体感覚と感情は、非常に近いものであるからなのですが。
「子どもの身体が社会の歪を引き受けている」という見方もあるようです。大人も大変ですから…。都市部などでは、日常的に野山を駆け回って様々な身体のバランスを経験し、虫や動物を追いかけるような遊びをなかなかするわけにはいかない時代となっているでしょう。子どもの周辺にもデジタル機器が氾濫し、環境によっては子どももヴァーチャルな世界で過ごす時間が増える傾向のある昨今、眼球運動についても昔と違う使い方や使う頻度にならざるを得ない状況があるように思います。これは視覚的な認知面や、読み書きの問題に影響してきます。ますます、「身体」という切り口が、子育てや療育や教育に役立ってくるように思いますし、多くの人に関心を持っていただきながら、考えていかなくてはいけない問題であると思います。そもそも、何らかの行為を行う者として「身体」を統合することにより、「自分」という存在が生じてくるのですから。